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福岡地方裁判所 昭和33年(わ)1043号 判決 1962年12月21日

被告人 小野明 外一九名

主文

被告人小野明を罰金五万円に、

同島田二男を罰金三万円に、

同田中勝美を罰金二万円に、

同舌間正記を罰金一万円に、

各処する。

被告人らにおいて右罰金を完納することがでないときは、各金五百円を一日に換算した期間、当該被告人を労役場に留置する。

但し、被告人舌間正記に対しては、本裁判確定の日から一年間右刑の執行を猶予する。

訴訟費用は末尾添付の別紙記載のとおり被告人らの負担とする。

被告人花田久男、同豊島幹生、同中村邦臣、同宮崎治三郎、同岩田泰治、同藤田毅、同大神一彦、同遠矢博志、同安永英雄、同古賀藤久、同小路正憲、同小畑博道、同池尻寛、同前田秀隆、同村上昭人、同野村大四郎はいずれも無罪。

理由

甲、事実関係

第一、本件事案の背景となつた事実(省略)

第二、罪となるべき事実

昭和三十三年四、五月当時、被告人小野明は門司市立西門司小学校教諭で福教組執行委員長、同島田二男は小倉市立菅生中学校教諭で福教組執行委員(書記局組織部員)、同田中勝美は門司市立第三中学校教諭で福教組執行委員(書記局調査給対部員)、同舌間正記は八幡市立尾倉中学校教諭で福教組八幡支部書記長をしており、いずれも右組合業務に専従していたものであるが、前記の如く福岡県教育委員会において同年五月上旬頃に県下公立小、中学校教職員に対する前記勤務成績の評定に関する規則が制定されることを予測し、主としてこれが勤務評定の実施に反対し、右規則の制定を阻止するため、福教組傘下組合員である右小、中学校教職員をして、同月七日を期し、年次有給休暇の名のもとに、校長が休暇請求を拒否してもなお一斉に就業放棄を行わしめる目的をもつて、

一、被告人小野明は、予て右一斉休暇に批判的態度を示していた福教組八幡支部高槻小学校分会の分闘長から右八幡支部を通じ、オルグとして出席方要請を受けたのに応じ、同年五月四日午前中八幡市中畑町四丁目十二番地所在の同市立高槻小学校に到り、同所において折柄参集した同校教職員である同組合分会員十三名位に対し「勤評を許すと、教育が戦前の逆コース時代にもどるもととなるのであるから、どうしても反対しなくてはならぬ。八幡は脱落しそうであるとのことであるが、是非、皆と足並を揃えて、組織を割らないで、一斉休暇に入るようにして貰いたい。」などと申し向け、前記一斉就業放棄方を慫慂し、

二、被告人島田二男は、いずれもオルグとして出席方要請されたのに応じ、

(一) 同年五月一日午後二時過頃、小倉市金田町所在の福教組小倉支部事務所で開催された右小倉支部青年部代議員会に出席し、同市内公立小、中学校教職員である右代議員四十二、三名に対し「五月七日に一斉休暇をやることになつているので、この休暇闘争に、一分会でも脱落するようなことがあれば、福教組全員の足並が乱れることになるし、今後何事をするにも乱れたり目茶苦茶になつて、福教組として行動がとれなくなるから、皆さんも、全員脱落しないようにしつかりやつて下さい。」などと申し向け、前記一斉就業放棄方を慫慂し、

(二) 同月五日午後一時頃から午後四時半頃までの間に、行橋市大字大橋田町所在の地区労会館で開催された福教組京都郡、行橋市支部分闘長会に出席し、右京都郡及び行橋市内公立小、中学校教職員である右分闘長二十六、七名位に対し「われわれは、労働基準法で認められた年次有給休暇をとるのだ。これは、何時でも自分の希望するときに、休暇を請求する権利があり、請求さえすれば承認を得る必要はない。一方また、われわれ教員は地方公務員だから、地公法によつて勤務条件等に関し、人事委員会に対して相当な措置をとつてくれと要求する権利を認められている。勤評が不当だから、やめてくれと要求するために年次休暇をとつて、このような相当な措置を要求するための大会に参加することが、争議行為になどなるはずがない。権利の行使としてあくまでも合法である。この一斉休暇は、小野中央闘争委員長の指令によつて実施するのだから、一切の責任は中闘にあり、分会員各位には心配はない。」などと申し向け、前記一斉就業放棄方を慫慂し、

(三) (1) 同月六日午後一時頃、前記福教組小倉支部事務所で開催された右小倉支部評議員並びに分闘長会に出席し、その席上多数の評議員等から前記一斉休暇は不穏当ではないかとの意見が発表されるや、小倉市内公立小、中学校教職員である右評議員等四十数名に対し「このような腰の弱いことでは、勤評を阻止できない。組織が団結して、強力な闘争をしなければ勤評は阻止できない。」などと申し向け、前記一斉就業放棄方を慫慂し、

(2) 同日午後九時頃、前同所で再度開催された前記小倉支部評議員並びに分闘長会に出席し、その席上各評議員等からその所属分会の前記一斉休暇突入に対する賛否の意見が表明され、その賛否相半ばすることが明らかになるや、小倉市内公立小、中学校教職員である右評議員等四十数名に対し「このような状況では、絶対勤評を阻止できない。福教組の各分会が団結して統一行動をし、一斉休暇闘争に突入しなければならぬ。勤評が実施されれば、民主教育が破壊され、明日からのわれわれの生活がどうなるかわからぬ。」などと申し向け、前記一斉就業放棄方を慫慂し、

三、被告人田中勝美は、予て福教組八幡支部から同支部平原小学校分会が前記休暇闘争より脱落しそうであるから、オルグとして右分会会議に出席方要請されたのに応じ、同年五月六日午后四時半頃八幡市尾倉町一丁目所在の同市立平原小学校に到り、同所で折柄開催された同校分会会議に出席し、同校教職員である右分会員三十四名位に対し、「勤務評定に対するところの怒りを、明日の一斉行動に統一し、なお、組織を守るためにも、結集してやらなくちやいけない。なお、一斉休暇は違法ではなく、適法である。」などと申し向け、前記一斉就業放棄方を慫慂し、

四、被告人舌間正記は、同年四月三十日午後四時三十分頃より午後七時頃までの間に、八幡市祇園町一丁目所在の前田小学校で開催された福教組八幡支部分闘長並びに評議員合同会議に右支部書記長として出席し、その席上、前記一斉休暇に関する中闘委員長小野明名義の指令第一号の伝達がなされた際、同市内公立小、中学校教職員である右分闘長並びに評議員等四、五十名位に対し「勤務評定が実施された場合には、また教え子を戦場に送るようになる。政府はそうした意図のもとに、それに従う教員をつくろうとしているのだ。自民党の思うままの先生ができたら、子供もそれに従うようになる。また、勤務評定のために、職員間で対立ができては困る。」などと申し向け、前記一斉就業放棄方を慫慂し、

もつて、それぞれ地方公務員である前記公立小、中学校教職員に対し、同盟罷業を遂行すべきことをあおつたものである。

乙、証拠の標目(略)

丙、法令の適用及び量刑等

第一、法令の適用

被告人小野明、同島田二男、同田中勝美、同舌間正記の判示各所為は、いずれも地方公務員法第三十七条第一項前段、第六十一条第四号罰金等臨時措置法第二条第一項(なお被告人島田二男の場合は包括して一罪に当るものと解する)に該当する。

第二、情状論(省略)

第三、量刑及び訴訟費用の負担(略)

丁、被告人及び弁護人等の主張に対する判断

第一、地方公務員法第三十七条第一項前段、第六十一条第四号は違憲である旨の主張について、

一、地公法第三十七条第一項前段、第六十一条第四号と憲法第二十八条及び第九十八条第二項との関係について

右地公法第六十一条第四号の先駆をなしたものと認められる昭和二十三年政令第二百一号については、既に昭和二十八年四月八日言渡最高裁大法廷判決によりその合憲性を是認されたところであるが、弁護人等は右判決理由中に示された以外の事項をも論拠として縷々右地公法の規定の合憲性を争うので、以下改めて検討を加えることにする。

ここで根本的に問われている、国家公務員或は地方公務員の争議権を否認し或は制限しているわが現行諸法規が憲法第二十八条に違背し延いて無効とせらるべきか否かの問題は、「公共の福祉」と「基本的人権」との関係を如何に考えるかという一般的な問題に関する基本的見解に立脚しつつ、一面においてこれら公務員の労働関係が具有する本来的性格ないし基本的特質を明らかにすると共に、他面右憲法第二十八条の存在理由を探究し、その上で、できる限り具体的に右両面の軽重を比較衡量して、一方が常に他方に優越すべきか、逆に一方が常に他方に譲歩すべきか、それとも両者の間に適当な調和点を見出せるか等を検討することにより、自らその解答を得ることができるであろう。

(一)「公共の福祉」と「基本的人権」

わが憲法にいわゆる「公共の福祉」の概念については、(1)各社会構成員の基本的人権が相互に調和を保ちながら円満に保障されている状態とか或は国民が一定の秩序の下に基本的人権を妨げなく享有している状態とか、又は(2)基本的人権相互間の矛盾衝突を調整するものとしての実質的平等の原理だとか、その他色々な説が行われている。いかにも、右(1)にいうような状態が「公共の福祉」に属することについては異論がないとしても、それは単に「公共の福祉」の一部面を捉えているに過ぎず、未だその全体的、統一的な概念を明らかにするものとは受け取り難く、例えば保健、厚生、良俗、風致等の如く、必ずしも基本的人権とまではいえない単なる一般多数人の福利の集積も「公共の福祉」とされている場合がかなり多いのである。又右(2)のような説明も、「公共の福祉」の実体を究めようとする貴重なものを含んでいるが、そこで言われている矛盾衝突は、ひとり基本的人権相互の間のみならず、ある「公共の福祉」と他の「公共の福祉」との間、若しくはある「公共の福祉」とある「基本的人権」との間においても起り得ることを考えるとき、一体このような場合、右(2)説の定義を適用してみると、問題の意味自体がどのようなことになるのか捕捉し難いものがあり、たやすく納得することができない。われわれは、やはり、諸説を通ずる大勢的な傾向に従い、「公共の福祉」とは、個に対する全体或は特殊に対する一般という意味を有するものとしての社会構成員多数の者の福利(基本的人権は固よりその他諸々の自由或は利益を含む)を総称するものと解する。或は、これを、社会全員の共存共栄、若しくはその共通共同の利益、さらには最大多数の最大幸福等々といつてもよい。何れにしても、その実体は大同小異に帰するであろう。そして、それは、憲法に取り入れられている概念である以上、憲法自身が目的としている乃至は少くともこれを容認している利益等であらねばならぬこと勿論である。

而して、わが憲法は、かかる「公共の福祉」と「基本的人権」との関係につき、その第十三条後段において「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他国政の上で、最大の尊重を必要とする」と規定し、その第十二条と相俟ち、両者の関係を総則的に宣言している。

右第十三条後段の解釈についても色々な説が行われているが、ここでもやはり通説的見解に従い、同規定は、次条以下等に保障されている国民の「基本的人権」が絶対無制限なものではなく「公共の福祉」により制約されるべき場合があることを容認しながら、而も他面「公共の福祉」が常に「基本的人権」に優先すると為すような安易な割り切り方を避け、各場合々々に応じ、両者の具体的内容を厳密に比較衡量の上、憲法の全精神に照らして両者の優劣或はその間を調整する方途を決せしめることとし、苛しくも「基本的人権」を制約するに際つては、最大の慎重さと謙抑さとをもつて臨むべきことを、立法その他の国政に対し要求しているものと解するのが、その第十一条及び第九十七条で基本的人権に関し「……侵すことのできない永久の権利として……」と表明していることとも照らし合せ、最も妥当な解釈と考える。(右に対比し、同法第二十二条、第二十九条第二項の両規定は、「公共の福祉」と「居住移転及び職業選択の自由」或は「財産権」との関係を各論的に律したものであり、実際の場合に行政法学上いわゆる比例の原則等が遵守されることを希いながらも、右の自由権、財産権との関係においては、原則的に、常に「公共の福祉」が優先する旨を定めたものと解される。斯く解することによつて、往々問題とされる同法第十三条と右両規定との関係も略々統一的に理解することができるであろう。)

当裁判所は、わが憲法における「公共の福祉」と「基本的人権」との一般的関係について、上叙のような見解を採るものである。そこで、次の問題である公務員の労働関係及び憲法第二十八条の存在理由等につき、順次考察を進めることにする。

(二) 公務員の労働関係が具有する本来的性格ないし基本的特質等について

凡そ公務員が従事する労務の内容を便宜上大別すれば、(1)国又は地方公共団体の存立上欠くことのできない最小限度の機能たる自衛・治安・司法・行刑・外交・財政等の諸作用に関するものと、(2)さらに進んで一般国民又は地方住民の福利の維持増進を目的とする諸作用に関するものとの二つとすることができ、そして右(2)の中にも、憲法第二十五条、第二十六条等(なお第九十二条参照)に掲げられている事項の如く(イ)国法上国又は地方公共団体に課された当然の義務とされている業務に関するものや、(ロ)国又は地方公共団体がその力に応じ任意に行つている色々なサービス業務に関するものや、(ハ)必ずしも国又は地方公共団体の固有の業務には属さないが、上記各種の業務を遂行するための財政上の収入を計ることを目的として行われる純営利的事業(例えば公営賭事等)に関するものなど、色々な種類性質のものが存することを指摘することができる。右(2)の(イ)(ロ)が直接公共の福祉を目的とするものであることは特に言を須いずして明らかであり、(1)の作用も一般国民又は地方住民の福利を増進するについての基礎的要件たる性質を有するものとして結局公共の福祉を目的とするものというべく、又(2)の(ハ)の附随的に行われる営利事業も、国又は地方公共団体の財政収入を計ることを通じて右福利の維持増進に奉仕するという意味で、間接的且つ微弱ながらもやはり公共の福祉を目的とするという色彩を帯びるものということができよう。かくして、以上いずれも、その重要度に大小軽重の差異は認められるが、憲法第十二条第十三条等にいわゆる「公共の福祉」の中に包含されるものと解して差支えあるまい。

そして、これらの業務乃至事業中本来は民間の業務乃至事業と同一種類のものであつても、それが一旦国又は地方公共団体のものとして取り上げられ、いわゆる「公務」とされるや、そこに公共的性格が付与され、且つそれに伴い一般人もそのようなものとしての信頼と期待とを寄せるに至り、国又は地方公共団体もこれに応えるべき関係に立たされるのが実状である。(この意味で所論の公立学校と私立学校とは必ずしも同一でない面を有し、又県立病院と私立病院ないし県営プールと私営プールも全然同一であるとはいえない)。かくして、いわゆる公務は、そのすべてを通じ誠実公正且つ能率的に運営されねばならぬという基本的な要請を生じ、又その作用の性質上国政若しくは地方自治政の動向を左右するような影響を及ぼす可能性があり或は国民乃至住民に対し権力乃至事実上の力として現れ若しくは国民乃至住民個人の私的生活にまで立ち入る面をも有する等のことがあるので、法は公務員に対し、国家公務員法(以下単に国公法ともいう)第七十四条、第七十五条、第六十二条ないし第六十七条、第百七条、第百八条或は地公法第二十七条、第二十四条ないし第二十六条、第四十四条等において、その身分待遇を保障すると共に、他方数多くの義務をも課している。

例えば、国公法第九十六条第一項は「すべて、職員は、国民全体の奉仕者として、公共の利益のために勤務し、且つ、職務の遂行に当つては、全力を挙げてこれに専念しなければならない」という服務の根本基準を宣明した上、同条第二項及び人事院規則十四―六において「……国民の意思によつて制定された法律を尊重し、誠実且つ公正に職務を執行すること……」を宣誓すべきことを要求し、さらに進んで、信用失墜行為を禁止し(同法第九十九条)、秘密を守る義務を課し(同法第百条)、政治的行為を制限し(同法第百二条)、或は私企業従事を制限する(同法第百三条)等一般人には認められない各種の制限を課し、而も、これらに対する違反は、すべて懲戒の事由とされるのみならず、そのあるものについては刑罰(秘密漏洩に対する同法第百九条第十二号・政治的行為制限違反に対する同法第百十条第十九号・私企業経営或は参加に対する同法第百九条第十三号)をもつて臨み得ることになつている。又地公法も、略々右に準じ、服務の根本基準(地公法第三十条)・服務の宣誓(同法第三十一条)に関する規定を設け、進んで地方公務員の言動に関し各種の制限(同法第三十三条、第三十四条、第三十六条、第三十八条)を課し、且つこれらに対する違反を懲戒の事由としている外、さらに処罰の対象としている場合もある(同法第六十条、第六十一条、但し国公法に比し刑罰の対象とされる場合が少い)。

さらに、刑法においては、右国公法或は地公法の対象とされている公務員及びその他の一般職特別職等を含む一切の公務員につき、虚偽文書の作成等(刑法第百五十六条)・職権濫用(同法第百九十三条)・賄賂の収受(同法第百九十七条ないし同条の三)をいずれも体刑で処罰することにしている。

以上公務員に課せられている諸種の制限を通観すると、一般民間人の場合であつたならば、せいぜい道義上の問題として論じられるに過ぎないような事柄が、法律上懲戒の事由とされ、或は進んで刑罰の対象とさえされていること、並びにその結果公務員個人が市民として憲法上与えられている基本的人権、例えば表現の自由や結社の自由、或は社会的政治的平等などの重要な権利が、相当な範囲に亘つて制限若しくは禁止されていることを、看取することができる。

しかも、右はいずれも公務員個人としての諸自由、就中基本的人権に対する重大な制限若しくは禁止と目されるのに拘らず、未だこれらの点につき、その違憲を難ずる強い世論の声を聞かないのは、窮極するところ、公務員の担つている公務の内容が、前述の如く直接公共の利益を志向するもの又はそれを支える基礎的な土台となるもの、或はそれを間接的に容易ならしめるための附随的なもの等と色々段階的な差異を有しながら、何れも憲法上いわゆる「公共の福祉」を目的とするものであり、そしてかかる「公共の福祉」のため公務員の諸自由乃至基本権に対し右程度の制限乃至禁止を行うことは止むを得ないという考え方が一般に承認されているがために外ならないであろう。公法学者が、公務員の勤務関係をいわゆる特別権力関係として把握し、「……特別権力関係においても、できるだけ基本的人権を尊重すべきであることはいうまでもないが、特別権力関係設定の目的に照らし、合理的と認められる範囲において、一般人については許されない制限を課することも、必ずしも不可能ではないと考えるべきであろう」(法律学全集中田中二郎「行政法総論」二二七頁)と説いているのも、右にいう特別権力関係設定の目的が何らかの意味で「公共の福祉」に存し、或はこれと連なるものであることを思えば、大体において上述の考え方と同趣旨に出でるものであろう。当裁判所も亦右のような考え方を採るものである。

なお、公務員の労働関係における特徴的な事態として、その一方の当事者たる国又は地方公共団体は、その本来の性格上、労働者側からの同盟罷業その他の争議行為に対し作業場閉鎖等の争議行為或は廃業の措置に出でることを許されず、即ち労働者に対抗し得べき使用者としての争議手段等を認められていないこと、並びに公務員の労働条件は、その公共的性質の故に、労働関係当事者間の取引により決せられることを相当とせず、殆んどその重要事項の大部分が法律又は条例をもつて定められることになつている関係上、これを事実上スト行為等の争議手段によつて決せしめるようなことは、その限りにおいて、わが憲法の立前とする議会制民主々義を否認し、或は参政権平等の原則にも違背するものであること等を、指摘することができる。公務員労働関係の特質を考察するに当つては、右のような諸点をも看過することができないであろう。

(三) 憲法第二十八条の存在理由とそこに内在する自己制約等について

同規定の根本精神は、要するところ、労働者に団結権・団体交渉権及び争議権等を保障し、もつて労使間における雇用関係の決定に際し双方の実質的平等を計ることを、その目的とするものである。而して、諸家の説く所に従い、今日世界の各国においてこのような原則が確立されるに至つた沿革をたずねると、在来の封建社会が崩壊し、私有財産権の絶対的優位と共に契約自由及び個人平等の原則を理念とする近代市民社会が出現すると間もなく、そこに何らの富も生産手段をも有せず、ただ自己の労働力を売ること以外に生計の途のないいわゆる労働者階級を生じ、これらの人々が、富と生産手段とを所有し利潤を追求して止まぬ使用者との間に、一対一の関係で取引をするときは、到底対等の立場を維持し得ることを期待し難く、従つて実質的に契約自由の原則を貫き通すことができず、右階級の人々は次第に物心共に劣悪な地位に追い込まれて行く傾向が現れて来たので、かかる人々に団結権等を認め、労使を名実共に対等且つ自由な立場において雇用関係の決定、即ち労働力(人格と直接結びついている点で他の一般商品と異る面を有すること勿論であるが)の取引をなさしめ、延いて右市民社会における重要な目標である自由平等の理念を実現しようとする趣旨から、判例或は成文法等によりいわゆる労働三権が保障されるに至つたものであることを、窺知することができよう。すなわち、右のような原則は、私有財産制と取引の自由とを基調とするわれわれの市民社会に特有なものであり、それが封建制社会において存在しなかつたことは固より、生産手段の共有制と計画経済とを基調とするいわゆる社会主義社会においても、それを認める実質的必要性がなく、或はかかる必要性が著しく減じられるであろうことを、知ることができよう。現に、ソ連・中共の両社会主義国では、憲法上団体交渉権・争議権に関する規定を欠いでおり、又他の成文法或は判例等でもこれを積極的には認めていないようである(尤も抵抗権的なものについては別途に考える余地があろう)。

かくして、この原則が保障する団結権・団体交渉権・争議権等は、個人の平等・人身の自由・思想良心の自由・学問の自由・言論集会の自由・教育を受ける権利・参政権等々凡そ現代人類社会の如何なる時と所とにおいても、普遍的に要請される諸々の自由ないし権利と異り、特定の社会体制、即ちわれわれの市民社会の中において初めて妥当し、その存在価値を有するものと考えられるのである。そして又、斉しく市民社会或は資本制社会と称されるものの中にも、その実態を探つて見ると、封建制の要素が多分に残存しているものもあれば、市民社会の理念を殆んどそのまま実行しているような典型的なものもあり、さらに進んで部分的にもせよ企業の公有或は公営が行われ、その面に関する限り、社会主義社会と類似の要素を包含しているものもあつて、各種各様であることを看取することができ、それぞれの実態に応じて、右原則が妥当し存立し得べき範囲と程度も亦自ら異らざるを得ないであろう。要するところ、右団結権等保障の原則は、われわれの市民社会において極めて重要な存在価値を有するものとはいえ、本来かかる特定の社会制度の中においてのみ妥当し存立し得べき性質のものであつて、必ずしもすべての形態の社会制度に通ずる普遍的な妥当性を有するものではなく、又、斉しく市民社会の中においても、それぞれの国情或は時代の情勢に応じてその具体的な妥当性の範囲と程度に若干の差異を生ずることを、免れ難いものである。

以上明らかにした如く、わが憲法第二十八条による基本権はその存在理由それ自体の中にある程度の自己制約を内包しているものと、言わねばならない。

(四) 地公法第三十七条第一項前段、第六十一条第四号の合憲性について、

(1) 憲法第二十八条との関係において

先に(二)の箇所で縷述したように、公務員の労働関係が、その基本的性質として、直接或は間接に「公共の福祉」を志向するものであって、利潤追求を目的とする当事者を相手方とするものではないこと、従つて、かかる性質の故に、これに従事する公務員については、一般市民と異り法律上その身分を保障すると共に、その自由乃至基本権を合理的な必要に応じ、ある程度制限しても止むを得ないこと、使用者たる国又は地方公共団体は労働者側の同盟罷業等に対抗し得べき作業場閉鎖等の争議手段を有しないこと、及び公務員の労働条件を争議行為によつて決せしめることはわが憲法の議会制民主々義或は参政権平等の原則との関係で問題があること、並びに他方(三)で考察したような憲法第二十八条による労働基本権の相対性、即ちそれは本来利潤追求者を相手方とする取引を裏付する手段として認められたものであつて、その妥当する範囲と程度にも自らなる制限が存すること等を、仔細に比較衡量すれば、概括的に言つて、公務員についてはその労働基本権を制限しても止むを得ないものがあると考えられる。而して、わが現行法制が、いわゆる公務員中、性質上その労働関係につき特段の法的措置を加える必要性を認め難い議員、委員等を除き、これをその職種に応じて三群に大別し、(イ)、防衛庁職員・警察職員・消防職員・監獄職員・海上保安庁職員等については労働三権を悉く否認し、(ロ)、(イ)に掲げたものを除く一般職の国家公務員及び地方公務員については団体結成権及び協議権のみを認め、(ハ)、現業庁の国家公務員或は地方公営企業の地方公務員については団体結成権及び団体交渉権のみを認め、且つ右(ロ)(ハ)何れについても争議行為を禁止し、なお右(イ)乃至(ハ)の各禁止に違反する争議行為に対しても或はその実行々為若しくは特定の関与行為につき刑罰をもつて臨み或は単なる懲戒の事由と為すに止めるなど、三者三様の法的取扱を規定し、又他方において、後述する如くそれぞれの代償措置を講じているのは、「公共の福祉」と「基本的人権」の両者をその具体的内容に即して比較衡量し、憲法全体の構造との調和をも考慮した立法であることが窺われるのであつて、地公法第三十七条第一項前段、第六十一条第四号を含むこれら諸法規をもつて、所論のように抽象的な「公共の福祉」を一方的に重視し、労働基本権を無視した憲法第二十八条、第十三条違反の無効な規定とすることはできない。

勿論、(a)、公務員の労働関係においても、前記(二)で縷述したような公共的な面の外、その相手方たる国又は地方公共団体は、公務員の職務と責任に応じた適正な給与を支給すべきものとされながら(国公法第六十二条、地公法第二十四条)、事実上ともすれば、できる限り安い経費で必要な労務を得ようとする一般私企業の使用者と共通な傾向に陥り易い一面があること、及び、(b)、斉しく公務員といつても、既に現行法制自体がある程度認めている通り、防衛・警察・消防等国又は地方公共団体の存立に不可欠な業務に従事するものもあれば、郵便交通その他民間私企業と実質上殆んで同じ内容の業務に従事するものもあり、なおその間の幾多の段階が存し、従つて右各業種に応じその争議権制限の程度も自ら段階的に異るべきものであることも、卒直に認められねばならないであろう。そして、右(a)(b)の観点から見れば、公務員全般にわたり、できる限り民間私企業における労働者に準じた待遇を与えることが憲法第二十八条の趣旨をより拡充する所以であり、又前段で述べた(ロ)群に属する各公務員についても、その職務内容を詳細に検討すると、寧ろ(ハ)群の公務員と同じ待遇を与えるべき職種のものがあるかも知れず、或は(ハ)群に属する各公務員の中にも、寧ろ民間私企業のうちいわゆる公益事業に従事する労働者と同じ程度の待遇を与えるべき職種のものがあるかも知れないのであつて、常にこの点に関し周到な検討と調整とを怠らず、凡ゆる職種の公務員について、その所遇の具体的妥当を期することが、右第二十八条の趣旨により忠実な所以と思われる。しかし、右の如く公務員全般にわたり、できる限り民間労働者に準じた或はよりそれに近い待遇を与えることが望ましいとしても、国ないし地方公共団体の存立につき欠くべからざる種類の業務、或はその存立上根幹的なものと認められる種類の業務に従事する公務員については自らその限度があること、又、右以外の種類の業務特に民間私企業と実質上殆んど同じ内容の業務も、先に(二)の中でも言及した通り、それが一旦国ないし地方公共団体の業務として採り上げられると、そこに色々な意味で公共的色彩を生じて来るので、これに従事する公務員に対し必ずしも同種の民間私企業における労働者と全面的に同一の待遇を与えるわけにいかないものがあることも、十分顧慮せらるべきであろう。彼此考え合せると、公務員と民間労働者との間に存する右のような共通性、類似性に着目しても、前述の如く公務員をその職種により三群に分ち、それぞれの対象に応じて労働基本権を制限しているわが現行諸法規を一概に違憲無効なものと目することはできない。

なお、一国における公務員の争議権等を法によつて制限することが妥当であるか否かの問題は、当該国における諸般の事情、就中そこにおける公務員が争議権の行使に極めて慎重であるか、或は逆に濫用の傾向があるか等に懸るところも大きいと考えられるが、本来それらの諸事情は立法機関たる国会において考慮判定すべきものであるところ、当裁判所は、右現行諸法規の制定に際し国会が右諸事情に関する判定を誤つたものと断ずるに足る資料を有せず、従つてこの面から観ても、前述のような現行諸法規を違憲無効なものとすることはできない。

次に、公務員の争議行為等を禁止するにつき、その代償的制度を必要とすることは、弁護人所論及び通説の述べる通りである。しかし、右代償の程度は、各公務員の職種に応じ、又当該国ないし地方公共団体における諸般の事情により、それぞれ異つたものとならざるを得ないであろう。

そこで、右代償に関するわが現行法制がどのようになつているかを概観してみよう。先ず、国公法は、その第三条第一項により、同法の完全な実施を確保し、その目的を達成せしめるため人事院を設けてその責に任ぜしめることとし、同条第三項において右人事院の権能を総括的に規定し、個別的には、第六十七条において「給与準則に関し、常時必要な調査研究を行い、給与額を引き上げ又は引き上げる必要を認めたときは、遅滞なく改訂案を作成して、これを国会及び内閣に提出しなければならない」旨を、さらに第八十六条ないし第八十八条において、職員の措置要求につき審査判定を行つた上「勤務条件に関し一定の措置を必要と認めるときは、その権限に属する事項については自らこれを実行し、その他の事項についてはその所轄の長に対しその実行を勧告しなければならない」旨を各規定している。次に、地公法は、その第八条第一項或は第二項において、人事委員会或は公平委員会の権能を総括的に規定し、個別的には、第二十六条において「人事委員会は、毎年少くとも一回、給料表が適当であるかどうかについて、地方公共団体の議会及び長に同時に報告するものとする。給与を決定する諸条件の変化により、給料表に定める給料額を増減することが適当であると認めるときは、あわせて適当な勧告をすることができる。」旨を、さらに第四十六条及び第四十七条において、人事委員会又は公平委員会は、勤務条件に関する職員の要求につき審査判定を行つた結果に基き「その権限に属する事項については自らこれを実行し、その他の事項については、権限を有する地方公共団体の機関に対し必要な勧告をしなければならない」旨を各規定している。いずれも、公務員の給与その他の勤務条件が国民又は地方住民の全体的意思を表明する法律又は条例により定められることによつて、その公正さを保障すると共に、さらにそれらの事項に関し独立専門の機関を設け、右保障を強化しようとしているものであり、そこに争議権等を否認していることに対するある程度の代償機能を認めることができよう。なお、例えば自衛隊員の如く業務の性質上その団体交渉権、争議権を否認することが当然と認められるものについては殆んど見るべき代償制度がなく(僅かに自衛隊法第四十九条により、独立の機関でない長官に対し不利益処分に関する審査要求の途が認められているのみ)、他方現業庁の国家公務員或は地方公営企業の地方公務員の如く、より民間私企業の労働者に近似すると認められるものについては、苦情処理共同調整会議(公労法第十二条地労法第十三条)・あつせん(公労法第二十六条)・調停(公労法第二十七条ないし第三十二条・地労法第十四条)・仲裁(公労法第三十三条ないし第三十五条・地労法第十五条)等の制度を設け、やや強力な代償の途を講じている。

右概観した通り、わが現行法制は各公務員の職種に応じそれぞれ必要な代償制度を設けているのであつて、右現行法制特に地公法第三十七条第一項前段、六十一条第四号等の規定をもつて、代償措置の裏付を欠くとの理由により、違憲無効なものとすることはできない。

尤も、前記国公法又は地公法に定められている人事院又は人事委員会或は公平委員会の権能自体が有権的決定者たる議会を拘束する力を有しない点において強力さを欠く憾があり、なお、その人的構成が自主公平を担保するに十分でないとの批判を挿む余地もあり、又その運用の実績も期待に反するものがあつたかも知れないことは、弁護人所論の通りであろう。しかし、右既往における運用が十全でなかつたことについては、戦後のわが社会が経済的にも著しく疲弊混乱していた過渡的な状態等に起因するものと認められ、必ずしもこれをもつて常態的なものとは目し難く、現にその後漸次向上しつつある状況が認められ、将来その人的構成の自主公平化と相俟ち一層運用の完全を期待することもできるのである。当裁判所は、前記諸機関の裁定が議会に対し拘束力を有し、或はその人的構成の自主公平を確保できるような立法上の諸手当を講ずることが憲法第二十八条の精神に照らし望ましいことを肯認しながらも、現行法制が未だかかる段階に達していないこと、或は過渡的にその運用が十分でなかつたことの故をもつて、直ちにこれを違憲無効と断ずるについては自制的たらざるを得ないものである。

(2) 憲法第九十八条第二項及び第二十八条との関係において

ところで、弁護人は、右代償制度に関連し、国際労働機関(以下単にILOともいう)第八十七号条約に関する結社の自由委員会の第五十四次報告(第一四九回理事会で承認)及び第五十八次報告(第一五〇回理事会で承認)を各引用している。そして、右第五十四次報告が、「ストライキを禁止する代りに仲裁機構を設けることについては、政府と国会が同意したのであるから、仲裁機構の裁定は政府及び間接に国会をも拘束するものと考えるべき」旨の見解を述べ、その結論的な勧告部分の(e)項のIIにおいて「基幹的な事業や職務において、労働者のストライキが制限または禁止される場合には、調停手続及びその裁定が凡ゆる場合に両当事者を拘束するような中立の仲裁機構に関する措置を伴うものでなければならず、又そのような裁定がひとたび行われたならば、完全敏速に実施されるべきであるという原則について、懸けている重要度に対し、日本政府の注意を喚起する」旨を表明し、又右第五十八次報告が、証拠資料及び地公法の諸規定に照らし人事委員会は給与その他の勤務条件についての異議に関する限り仲裁機構でなく、諮問機関であるように思われる旨、並びに人事委員会の構成に関する疑惑を表明した上、その結論的な勧告部分の(f)項において「I、ストライキが禁止される場合には他の救済手段がなければならないという原則を再確認すること。地方公務員でない地方公共団体の職員について、裁定が拘束力をもつような仲裁機構を設置するよう地公労法を改正することを意図しているという日本政府の陳述を記録すること。地方公務員をも類似の機構の中に含ませるという、一般化している慣行を採用することが望ましいものであることについて考慮するよう、日本政府に示唆すること。II、人事委員会の数的な構成の上に、色々な利益が正しく反映されること、又同委員会の中立、もしくは公益委員会のすべてがその不偏性につき一般の信頼を得ることを確保するために、如何なる措置を取り得るかを考慮するよう、日本政府に示唆すること。III、関係当事者のそれぞれが人事委員会の任命について平等な発言権をもつべきであることを規定することの可否についても、考慮するよう、日本政府に示唆すること。」を記述していることは、何れも所論の通りと認められる。しかし、右第八十七号条約或はここに示されたような見解が国際社会で一般的に承認されたいわゆる国際慣習法たる地位を獲得しているものとは目し難いので、これをもつてわが憲法第九十八条第二項にいわゆる「確立された国際法規」に該当するものと為し得ないことは固より、未だ右条約の批准を見ない今日においては同項にいわゆる「日本国が締結した条約」としての効力をも認めることができない。そして、右条約及びそれに関する右各報告は、概して抽象的弾力的な立言をしているのであつて、右は恐らく、ILO憲章第十九条第三項或は同憲章の附属書とされているいわゆるフイラデルフイア宣言第五項に述べられているような根本精神に出でたものであり、日本における社会的、経済的諸事情に適合する具体的措置については、日本国自身の決するところに委ねているものと解されること、並びに右各報告はいわば一種の行政解釈に属するものであることも、亦十分留意されねばならない。かくして、わが地公法等が右条約或はそれに関する各報告中に示された線にまで達していないことの故をもつて、必ずしも右地公法等が憲法第九十八条第二項に違反するものとすることはできない。

続いて、弁護人は、「わが憲法の労働条項がILOの水準より高いことは、あらためて指摘するまでもあるまいと思う。そうだとすれば、日本憲法二八条の内容が、ILO結社の自由委員会及び理事会の既に八三ヶ国によつて批准された八七号条約に関して確立した先例に基く公的見解の水準を当然に内包すると解しなければならないであろう。」旨主張し、証人野村平爾の供述記載を引用している。

こゝに述べられた見解は、恐らく、わが憲法第二十八条の文言とILO憲章の文言とを形式的に比較し、争議権を明認している右第二十八条の規定内容は、争議権について明文を存しないILO憲章の基礎の上に成立した第八十七号条約及びそれに関する公的見解の水準より、当然に高いものでなければならぬとする一種の文理解釈を、発想の前提としているものの如くであつて、当裁判所の俄かに賛し得ないところである。蓋し、実社会に存する事物の論理はしかく簡単に割り切れる筋合のものではなく、ここに問題とされている憲法の条文の如きも、その基盤をなす社会的諸事情に考慮払うことをなくして、その意義を正しく把握することはできないからである。

いわゆる労働三権を保障するわが憲法第二十八条の規定が、西欧諸国における新しい憲法の一般的動向に倣つたものであり、而も、争議権を法による留保条項なくして保障している点において、さらにこれを前進せしめたものであることは、一見して明らかな通りであるが、先ずその文面自体に徴しても、それが憲法の他の多くの条文とひとしく一般的、抽象的な表現をとつている関係上、右規定そのものから右保障の程度、内容を具体的に特定するような解釈を導き出すことは不可能であり、結局、その具体的な程度と内容とは、わが国の社会的、経済的、文化的諸事情を考慮し、その時代における一般的な憲法感覚ないし法意識等を基準として、個々の問題毎に決定して行く外はないのである。そして、周知のような、いわゆる明治憲法に代り現憲法が成立するに至つたわが国における歴史的な事情(就中右第二十八条を設けるに至つた経緯)及びその後のわが国における基盤的諸事情の推移進展を考慮しても、右第二十八条による労働基本権保障の具体的程度及び内容が、このような憲法上の保障規定を有しない或る他国、例えば米、英における労働者達が永い努力の末かち取り現に享受しつつある具体的な保障の程度、内容よりも高からねばならぬとなすべき、何らの事由をも見出すことはできないのである。勿論、一旦憲法にかかる明確な保障規定が設けられると、(イ)、労働を強制されない自由とか、結社の自由とか、或は表現の自由等々の迂遠な法理を引用することなく、右規定自体を根拠として、色々な労働法的原理を導き出し、或は労働法的権利を防衛することができるのであつて、その意味ではかかる憲法上の規定を有しない場合に比し、より強力な保障を与えられているということができるし、さらに又(ロ)、右規定のこのような基本的性能を利用して労働者の地位の保障を英、米並みのレベルに引き上げ、あるいはそれを上廻るものとすることもできよう。右第二十八条の実質的意義は主として右(イ)(ロ)の点に存するものと解される。しかも、右(イ)(ロ)いずれの面においても、わが国社会における基盤的諸事情(諸々の法制や国民性等を含む)と調和を保ちながら、その機能を発揮してゆくべきことが期待されているのであつて、彼我における基盤的諸事情の相異を疎外視し、右第二十八条のような一般的、抽象的な規定自体から、その保障する具体的内容等が、このような規定を缺く他国における具体的な保障内容等よりも高いものであらねばならぬとする法的解釈を、導き出すような考え方を採ることはできない。要するところ右第二十八条の文言自体に照らしても、又かかる規定を生み且つ存続せしめているわが国社会の基盤的諸事情に鑑みても、その労働基本権保障の具体的程度及び内容が、かかる規定を有しない英、米等における具体的な基準よりも高度のものであらねばならぬと、その意義を特定するような法的解釈は、いずれの点から観ても論理の必然性を缺くものというべきであろう。

而して、同様の理により、右第二十八条の保障する労働基本権の具体的程度内容が、色々な国際的事情からその憲章に争議権のことを明記することを避けたILOが、現実の具体的活動を通じて漸次築き上げつつある争議権保障の水準よりも、常に高くなければならぬとする前記弁護人の見解も、立法論或は政策論としては傾聴すべきものがあるにせよ、厳正な法的解釈の立場からは到底受け容れることができない。

上来縷述した通り、各方面にわたり考察しても、当裁判所は、昭和二十三年政令第二百一号を憲法第二十八条に違反しないと判定した前記最高裁大法廷判決の趣旨を支持し、延いて地公法第三十七条第一項前段、第六十一条第四号の合憲性を肯認せざるを得ないものである。

(五) 本件において、右地公法の各規定が憲法第二十八条等に違反することを主張し得べき具体的事情が存在するか否か、について

以上、(一)ないし(四)は、地方公務員全般に対する一般的、概括的視野から地公法第三十七条第一項前段、第六十一条第四号の合憲性を論じたものであつて、更に個々の各具体的職種につき、その公共性、基幹性等を精密に吟味してゆけば、憲法第十三条、第二十八条に対する前説示のような基本的考へ方から見ても、或る職種に関する限り、地公法の右各規定を適用することが違憲と目されるような場合が絶無であるとは保し難く、従つて苟しくも左様なことのないよう総ての職種、職階毎に常に精細厳密な吟味が加えられねばならぬことは、言うまでもない。そして、若し左様な職種に対し右各規定が適用されようとする場合は、その違憲無効を主張し得べきこと勿論であるが、本件においては左様な具体的事情をも見出すことができない。

即ち、本件被告人等がその同盟罷業をあおつた公立小・中学校における義務教育の業務は、各児童生徒の憲法第二十六条第一項による教育をうける基本権、並びにこれに伴うその両親等の基本権(憲法は特段の明文をもうけていないが、同法十一条の基本的人権の中に当然含まれるものと解する、なお民法第八百二十条「親権を行う者は、子の監護及び教育をする権利を有し、義務を負う。」世界人権宣言第二十六条第三項「親は、その子供に施さるべき教育の種類を選択するについて優先的の権利を有する。」等の各規定参照)及び憲法第二十六条第二項による基本的義務など社会構成員多数の者の重大な利益に関する公共性を帯びたものであり、而も、わが現行法制におけるが如く、それが国家及び地方公共団体の事業として取りあげられると、右公共性は一層その度合を高められるものということができよう。殊に、国土狭小且つ天然資源に乏しいわが国が、近代国家として存立し繁栄して行くについては、相当高度な教養を身につけた国民各自の勤労に俟つ外はなく、わが国における教育の重要性はこの意味において亦格別なものが認められる。現に、憲法・教育基本法その他教育に関する諸法制に照らして見ても、又どんな辺境においても義務制諸学校と警察機関のない村落は殆んど無い位全国に行き渡つている事実、或は各地方自治体の財政(いうまでもなくその大きな部分が住民の税金によつて賄われる)において教育関係予算が占める比重が極めて大きい事実(例えば、「昭和三七年度教育予算額等について」と題する書面―記録五二の一冊編綴―に徴すれば、福岡県では、昭和三十七年度において三十六パーセント、その他の九州六県でも、同年度において三十パーセント前後の各比率を示している)等に照らしても、今日のわが国において、教育は国又は地方公共団体の営む諸々の事業中正しく根幹的なものとされていることが、何人の目にも明らかであろう。右のような高度の公共性と明白な根幹性とを有するわが義務教育の業務に従事する教職員につき、前に詳述したような争議行為の禁止及び代償措置を定めている現行法制中地公法第三十七条第一項前段或は第六十一条第四号等の諸規定を時に応じて適用することは、義務教育という具体的な而も基本的人権に直結する公共の福祉を維持するため、まことに止むを得ないところというべく、これをもつて憲法第二十八条、第十三条に違反するものとすることはできない。

さらに、本件における特徴的事実の一つとして看過し難い点は、それがいわゆる政治スト的な様相を帯びていたということである。凡そ、義務教育に関する公立小、中学校の教職員につき、市町村教育委員会(以下単に地教委ともいう)が都道府県教育委員会(以下単に県教委ともいう)の計画の下に勤務評定を行うことは、地公法第四十条並びに地方教育行政の組織及び運営に関する法律(以下単に地行法ともいう)第四十六条により法的な義務とされているところであり、若し、機構及び予算等の関係で右計画或は実施を不可能ないし困難ならしめるような特段の事情がないのに拘らず、これを計画或は実施しなかつたならば、県教育委及び地教委等の当局は法的義務を懈怠した責を問われねばならないのであつて、当局においてこれを計画或は実施するかしないかは、当局及び教職員団体間の団体交渉等により任意に決定し得べき限りではない。即ち、現行法制上、このような事項は、憲法第二十八条の保障する団体交渉或は争議行為の対象となり得ない性質のものである。現に、千九百五十八年十月に行われたILO教員問題専門家会議の報告が、勤評問題を交渉事項でなく協議事項であるとし(労働法律旬報四二四号九―一一頁)、又その後千九百六十一年五月に行われたILO結社の自由委員会の第五十四次報告がその(f)項の冒頭で「○○教育政策の一般的な基準の設定は、教員の団体と協議することが通常であるとしても、それら団体と教育当局との間の団体交渉事項ではないことに同意し云々」という旨を述べていることも(法律時報三九四号四一―四二頁)、十分留意さるべきであろう。然るに、被告人等は、証拠上明らかな如く、実施されようとする勤評の具体的内容に立ち入つて協議することを肯んぜず、勤評の実施そのものに反対して本件同盟罷業を計画し且つ実行を指導したものであつて、もはや憲法第二十八条の保障を援用し得べき何らの理拠をも有しないものというべきである。況んや、右勤評反対の主要な理由の一つが、弁護側証人等就中証人豊瀬禎一、同古子弘、同牛島恒、同松本兼義、同永田正胤、同下川博子、同宮崎孝介、同宮之原貞光の各供述記載及び被告人等の各供述(冒頭の意見陳述も含む)並びに証第四六、三九六の七、一二二一、一四七六号等に徴し明らかな如く、勤評は教育を官僚的に統制して軍国主義を復活せしめ延いて戦争に導こうとする反動文教政策の一環であるからこれを阻止するという、本来国民一般の参政権による政治的コントロールを通じて決定されるべき全くの政治的な―而もその思考過程たるやかなり回り遠いものを含み、必ずしも一般理性人の承認を得難いような―目的に存するに至つては、いよいよ同条によつて保障される労働基本権等の埓外に逸し去つたものと評されても止むを得まい(固より右のような政治的意見を持ち或はこれを表明することは個人として或は組合としての自由に属するが、かかる意見を実施面で貫き通すため教職員に何か特権的な力が認められているなどと考える余地はない筈である)。

かくして、具体的、個別的視野から探究しても、本件については、地公法第三十七条第一項前段、第六十一条第四号の適用を憲法第二十八条等に違反するものと主張し得べき、何らの具体的事情をも見出すことができない。

以上のような次第であるから、憲法第二十八条或は第九十八条第二項を根拠として、地公法第三十七条第一項前段、第六十一条第四号の違憲無効を主張する弁護人等の所論は、採用することができない。

二、地公法第六十一条第四号と憲法第十八条等との関係について

憲法第十八条は、近代社会ないし近代法秩序にとつて不可欠な要素である人格の自由独立を確保するため、それとは相容れない奴隷的拘束及び意に反する苦役を禁止したものであつて、労働者の生存確保のために争議権を保障する趣旨のものではない。蓋し、このことは、その原由をなすアメリカ合衆国憲法修正第十三条もまた一般にかかる意味に解せられていること、右第十八条の規定がわが憲法上いわゆる自由権的基本権の系列中に位置していること、さらにわが国憲法は別に第二十五条以下のいわゆる生存権的基本権である新たなカテゴリーの系列中において労働基本権を保障していること等に徴して明らかである。

そして、「その意に反する苦役」とは、右規定の歴史的な意味から考えて、特に苦痛を伴う労役のみを意味するものと解すべきではなく、本人の意思に反して他人のために強制される労役、或はそれに準ずるような隷属状態をも含むものと解するのが相当であつて、たとえ通常の労役であつても、本人の意思に反して強制されている以上、それは意に反する苦役にあたるのである。

かくして、労働者が労働を放棄することの自由は、それ自体に関する限り絶対的なものとして保障されることになるので、労働者が特定の使用者のもとを去ること自体はいかなる意味でも犯罪とされることがなく、また労働者が労働契約に違反する場合であつても、労働者の就業義務の履行を直接又は間接に強制する意味において刑罰を加えることは許されないわけである。

しかしながら、右のような労働者の権利は労働者個人の権利として保障されているのであつて、一定の目的の下に集団的な規模で行われる義務違反の争議行為を法律により禁止することは、労働者個人の右権利そのものを侵害するものでない限り、必ずしも憲法第十八条には違反しないというべきである。尤もかかる争議行為が事実上労働者個人の義務違反たる面を有することを考えれば、刑罰をもつて争議行為を禁止し得るのは、争議行為により第三者の生命財産ないし一般公衆の安全福祉等に害悪を及ぼす等単なる労働者の義務違反以上の事態を伴う場合に限られると解すべきところ、地公法の掲げる争議行為は、地方公共団体の業務を阻害することを伴い、或は地方公共の秩序を紊し、或は住民の安全ないし福祉の保持に害悪をもたらすものであるから、これを違法行為として刑罰をもつて禁止することも止むを得ないものと認められる。

しかも、地方公務員は、その人格を無視され或はその意思にかかわらず束縛される状態にあるのではなく、所定の手続を経れば何時でも、自由意思によつてその雇傭関係を離脱することもできるのであり(最高裁判所昭和二十八年四月八日大法廷判決参照)、又地公法第六十一条第四号は、直接争議行為即ち就業放棄そのものを処罰するのではなく、特に争議行為を共謀し、そそのかし、あおり又は企てる行為のみを捉えて処罰することにしているのであるから、同条が刑罰の威嚇により人をその意に反する苦役に服させることにならないことは明らかであつて憲法第十八条とは関係がない。

以上、いずれの点から見ても、地公法第六十一条第四号は憲法第十八条に違反するものではない(この点についても前掲昭和二十八年四月八日言渡最高裁大法廷判決参照)。

更に、弁護人は、ILO第百五号条約、即ち「強制労働の廃止に関する条約」を援用し、憲法第十八条は同盟罷業に関与したことに対する制裁として刑罰を科することを禁止する趣旨をも含むべきものと解すべきであると主張するので、判断するのに、同条約、特にその第一条(d)項は、直接一切の争議行為に対する刑罰的制裁を排除しようとするものではなく、適法なストライキへの関与に対して加えられる強制労働としての刑罰を禁止するに過ぎず、何よりも労働者のストライキ権の尊厳性を唱つたものと解せられ、又その立言は憲法第十八条の規定文言と聊か異るものがあり、従つてその趣旨が必ず一致するものとは限らない。そして、同条約がその対象として予定する適法なストライキかどうかの基準に関する国際法の内容は「結社の自由委員会」に対する提訴事件を通じて形成されつつある過程にあり、また「条約及び勧告の適用に関する専門家委員会」の報告等により同条約の適用を除外すべき例外的事例がいくつか明らかにされているところ、現行公務員法により刑罰的制裁を伴う争議行為の一般的な禁止(国公法第百十条第十七号、地公法第六十一等第四号)は場合により同条約に抵触するおそれなきにしもあらずと思料されるが、いまだ右同条約の適用基準ないし適用除外例が上述の如く必ずしも明確であるとはいえないのみならず、同条約は、わが国においても米国或はソ連と同様、未だ批准されていないので、わが憲法の解釈上決定的な法的拘束力を有せず、現状においては単に国内的措置の指針たるに止まるものと目するのが相当である。かくして、同条約と照らし合せても必ずしも一律に所論のようには解し難く、地公法の右規定が憲法第十八条、第九十八条、延いて第二十八条に違反するものということはできない。

以上のような次第であるから、地公法第六十一条第四号が憲法第十八条等に違反する旨主張する弁護人の所論も亦採用することができない。

三、地公法第六十一条第四号と憲法第二十一条との関係について

憲法第二十一条にいわゆる「……言論その他一切の表現の自由……」が、憲法上の諸々の基本権の中でも最も根幹的なものに属することは、まさに弁護人所論の通りである。いわゆる表現の自由は、夙に古い時代から東西の先哲等がその貴重性を覚り、或はこれを育んで来たところであり、近代民主国家において漸次その保障が確立され、今日では民主社会を存立させるための基礎的な前提条件とされるに至つているが、それは必ずしも当代の社会に特有なものではなく、寧ろ社会体制の如何を問わず、将来にわたつて永く受け継いで行かれるべき重要な人類遺産の一つに属するものというべきである。

しかし、それは、その両刃の剣的な社会的影響力の故に、時に害悪をもたらす方向において用いられることもあり、その程度が他人の基本的人権或は公共の福祉を害し、又は害する惧があるものについては、もはや放任を許されず、これを禁止或は制限しようという要請が当然に生じて来るわけである。即ち、いわゆる表現の自由も、それ自体の中にかかる内在的制約を孕んでいるものと、言うことができよう。ただし、凡そ表現活動は、その評価に微妙困難なものがあり、又、必ずしも多数決によりその価値を評定するに適せず、却つて多数の支持を得られない言論表現の中にこそ往々貴重なものが存することを思えば、安易にこれを禁止或は制限することの方が寧ろ有害危険な結果を招来する惧もあるので、或る意見等を実行に移すか否かは多数決の定めるところに従うとしても、それを開陳すること自体の自由は最大限に保障することが、社会の健全な進歩発達のため望ましいことも、亦極めて明らかである。かくして、右憲法第二十一条の如く法律の留保条項を存しない保障規定が設けられるに至つたものであり、又、同法第十三条によりこれを禁止或は制限するについても最大の慎重さが必要とされる次第である。

而して、憲法第二十一条及び第三十一条(以下単に第二十一条等ともいう)の解釈運用に際つては、千九百十九年米国の連邦最高裁判所がシエンク事件において宣明し、戦後わが国においても最高裁判所以下各裁判所が採用しつつある、「明白且つ現在(或は緊迫せる)の危険」の基準が、まことに適切なものであること、亦弁護人所論の通りであると考えられる。ところで、右米連邦最高裁判決については色々な抄訳が発表されているのが、最後の節の中でその理論的な見解を要約したものと認められる箇所は「……すべての行為の性格は、それが為されるときの状況如何に懸つている。……言論の自由を最も厳格に保護したとしても、劇場内で偽つて火事だと叫び混乱を惹き起すような人を保護しないであろうし、又暴力と全く同じ効果を伴うような言葉を発することの禁止に対して人を保護するものでもない。……すべての場合における問題は、用いられた言葉が、国会において防止する権限を有するような実質的害悪をもたらすという明白な且つ現在の(或いは“緊迫せる”と訳してもよいであろう)危険を創り出す状況において用いられたかどうか、及びそのような(危険を創り出す)性質のものであるかどうか、ということである。……」旨を述べているものと解してよいであろう。そこで、右基準に照らしながら、当面の問題たる地公法第六十一条第四号を検討すると、同法第三十七条第一項前段で禁止している地方公共団体の職員による地方住民に対する同盟罷業その他の争議行為という事態は、正しく前記シエンク事件の判決にいう国会が防止する権限を有するような社会的害悪に該当するものと認められ、又かかる違法な行為をそそのかし若しくはあおる言論その他の表現活動は、直接かかる違法行為即ち右のような社会的害悪を志向するものであり、右害悪を導き出す明白な且つ現在の危険性を創り出すものに該当すること殆んど異論の余地もないから、右表現活動を処罰しようとする右第六十一条第四号の規定は何ら右基準に違背するところがない。

弁護人所論は、恰も右表現活動によつてもたらされるものが、それ自身として可罰性を有する害悪的行為でなければならないかのように主張するが、前記シエンク事件の判決中に例示されている火事だという叫び声によつて惹起される混乱の事態等が、それ自身として可罰性の問題を生ずる余地は殆んどなく、又、わが刑法における脅迫罪、名誉毀損罪若しくは猥せつ罪に該当する言論表現によつてもたらされる被害状態、その他幾多の言論事犯における被害状態が、必ずしもそれ自身として可罰性の問題を生ずるものではないこと、換言すればこれらの場合にもたされる事態が、前述国会において防止する権限を有するような害悪であれば足り、而も、それ以上のものであることを要しないことを、考え合せると、弁護人の右主張は、的確な論拠を提供せずしてことさらに狭い方向づけを試みるものであり、憲法第二十一条そのものの解釈としては相当でない。尤も、かかる表現活動がさらに他人の行為を媒介として害悪の事態をもたらす場合は、当該他人の行為自身につき可罰性及びその軽重を論ずることが可能であるけれども、それは寧ろ刑事政策或は刑罰理論の問題として論ずるのが相当であつて、右第二十一条等或はそれらに関連する「明白且つ現在の危険」の基準の問題ではないと考える。右刑罰理論等の問題については後で別に述べることにするが、いずれにせよ、右第二十一条等の解釈として、表現活動を処罰するには、そこにもたされる害悪がそれ自身として可罰的な行為であらねばならぬとなす見解には、俄かに与することができない。

以上のような次第であるから、地公法第六十一条第四号が憲法第二十一条に違反する旨主張する弁護人の所論も、亦採用することができない。

四、地公法第六十一条第四号と憲法第三十一条との関係について

わが憲法第三十一条は、その文言に照らし刑事手続の適法性正当性を要求していることが明らかであるのみならず、同規定の原由とされている米国憲法修正第五条、第十四条に関する解釈、並びに個人の尊厳を宣言し且つ生命自由等に対する国民の権利について最大の尊重を求めているわが憲法第十三条の法意及び全般的に人権保障の万全を期しているわが憲法の根本精神等を彼此考え合せると、弁護人所論の如く、右刑事手続において適用されるべき裁判規範たる刑事実体法についてもその適正を要求しているものと解するのが、相当である。而して、その「適正」とは、また所論の如く、規定文言の明確性及び規定内容の合理性をいずれも包含するものと、解してよいであろう。そこで、以下項目を分けて、考察することにする。

(一) 規定文言が不明確である旨の主張等について

ところで、地公法第六十一条第四号は、先ず、その犯罪行為の主体につき、「何人たるを問わず」といい、何らの制限も附さないことを特に明示している。その意義は文言の通り極めて明白であつて、特に疑義を挿む余地も存しない。そして、この明白な意義に従つて解釈しても、同盟罷業その他の争議行為の一般参加者たるに止まる者は、後述のような犯罪構成要件との関係上、何ら処罰の対象とならないのであるから、所論のように憲法第十八条に真向から抵触するという不都合な事態を生ずるものとは考えられない。

次に、同規定は、犯罪行為の構成要件として「……第三十七条第一項前段の違法な行為の遂行を共謀し、……」と定めている。ここにいう「共謀」とは、同規定が右第三十七条第一項前段の違法行為を自ら実行した一般参加者たるに止まる者を処罰の対象から除外している律意(及び延いて同規定はかかる違法行為の遂行につき右一般参加者よりも何らか重要性を認められる役割を演じた行為のみを捉えて処罰しようとするものと解されること)に鑑み、刑法第六十条の「共同正犯」或は暴力行為等処罰に関する法律第一条の「数人共同犯」等の解釈に関連し、講学上或は判例上に通常用いられている「共謀」の概念中より前記一般参加者たるに止まる者による共謀を除きそれ以外の者による、そして何らかの意味でかかる一般参加者の行為に比しより重要な役割を認められる共謀を意味するものと解する。このように解すれば、前記通常用いられている「共謀」なる概念が、学説上においても又判例上においても、既に確立された意味内容を持つていることから考え、右地公法第六十一条第四号にいわゆる「共謀」の意義もおのずから明らかになるので、それは刑事法上の用語として十分な明確性を具えているものと目すべきであろう。そして、右「共謀」は本件において具体的な訴因とされていないので、詳述を避けるが、かかる「共謀」が同法第三十七条第一項前段で禁止する違法事態を惹起するについて重要な役割を演ずるものである以上、その社会的影響は個々の一般参加者の行為と同日に論ぜらるべき比ではなく、これを捉えて処罰の対象としても実質的にその不都合を非難される道理はないと、考える。

続いて、同規定は斉しく犯罪構成要件として「……第三十七条第一項前段の違法な行為の遂行を……そそのかし、若しくはあおり……」と定めている。ここにいう「そそのかし、若しくはあおり」とは、地方税法旧第十二条(現第二十一条)第一項、破壊活動防止法第四条第一項第二号のヌ(又は旧食糧緊急措置令第十一条)等にいわゆるせん動(又は煽動)とほぼ同じく、地方税法の右規定に関し昭和三十七年二月二十一日最高裁大法廷判決が判示し或は破壊活動防止法の右規定に関し同条第二項が定義をかかげているように、「特定の行為を実行させる目的をもつて、文書若しくは図画又は言動により、人に対し、その行為を実行する決意を生ぜしめ又は既に生じている決意を助長させるような勢のある刺戟を与えること」を意味するものと解する。そして、曽つて治安維持法に関し昭和五年十一月四日大審院第四刑事部判決が「煽動とは、他人に対し中正の判断を失して実行の決意を創造せしめ又は既存の決意を助長せしむべき勢を有する刺戟を与ふることを指称し云々」と判示していることを考え合せると、一層その意義が明らかになるであろう。即ち、それは、「勢のある刺戟を与える」とか「中正の判断を失して……」とかいう要素を含むものであるから、相手方の感情に訴える方法により決意を創生もしくは助長せしめることを意味するものと解すべきである。裏から言えば、相手方の理性に訴える方法により説得を行うようなことは、たとえ決意の創生もしくは助長という効果を伴うものであつても、「せん動(又は煽動)」に該当しないわけである。而して、右地公法の規定にいわゆる「そそのかし」は、右「せん動」のうち実行の決意を新たに生ぜしめる行為を意味し、「あおり」は、右「せん動」のうち既に生じている実行の決意を助長する行為を意味するものと解するのが相当である。さらに、同規定の趣旨を布えんすれば、それは、同法第三十七条第一項前段の違法事態が発生することを禁遏するため、かかる違法事態発生の根源をなすところの機関意思決定の面に関する企画、提案、討議、採決等の諸行為を「共謀」という類型―例えば刑法第七十七条の内乱罪における「謀議に参与し―の如く―で抑え、右機関意思実行の面に関する指令、指示の発出、伝達その他指導、督励等の諸行為中相手方の感情に訴え、中正の判断を失せしめるような不当或は不公正なやり方を「そそのかし、若しくはあおり」という類型で抑え、これらに関する限り刑罰をもつて臨もうとしているものである。以上に説示する通り、「そそのかし、若しくはあおり」行為の意義はまことに明白であつて、何ら不明確な点を存しない。そして、かかる意義を有する「そそのかし、若しくはあおり」行為を処罰しても、これ亦争議行為の一般参加者たるに止まる者を処罰することにはならず、ただ法が禁止する違法事態を惹起するについて不当或は不公正なやり方で指導的役割を演じた者を処罰しようとするに外ならないものであり、而も、このような不当或は不公正なやり方までをも、争議行為に通常伴うところの必要的前提行為或は必要的附随行為として保護すべき謂われはないから、これをもつて真向から憲法第十八条に矛盾するとなす弁護人の所論は到底採用することができない(なお、所論は他裁判所の判決例をも引用するが、それらにつき検討しても、未だ当裁判所の見解を変更せしめるに足りない)。

ただ、地公法の右規定が続いて「……又はこれらの行為を企てた者」と定めていることは、「そそのかし、若しくはあおり」行為という言論表現活動そのものでなく、それを企てるという、さらに間接的な行為まで処罰の対象とする趣旨と解され、この点において前述「明白且つ現在の危険」の基準に照らし問題とされるものを含み、延いて違憲の疑を挿む余地を存するが、右「企て」行為は本件における具体的訴因の中に含まれていないと認められるので、この程度に止め、これ以上詳論しないことにする。

(二) 規定内容が刑罰法規として不適正、不合理である旨の主張について

近時社会各方面に現れつつある集団犯的事象に対し、従来の個人的行為を念頭に置いて規定された刑法の共犯規定のみをもつて律し得るか否かについては、夙に疑惑が挿まれ、この種集団犯的事象においては、何らかの指導的役割を演じた者につき刑罰の重点を置き、一般参加者に対しては場合により或は刑を免除し或はこれを減軽すべきものであることが、屡々主張されて来た。今日の刑法理論においても、この問題が取り上げられ、既に多くのわが国学者達が集団犯的事象に対しては寧ろ刑法総則の共犯規定の適用を排除すべきものであることを明らかにしつつある現状である(取り敢えず目に触れたものとして、草野豹一郎―刑事学の諸問題、第六集団犯罪に就いて、一八一頁以下、安平政吉―集団犯理論の新構成刑事法講座第三巻五〇九頁以下「集団犯罪」、同氏―集団犯理論の新構成・小野博士還暦記念論文集「刑事法の理論と現実(一)」二二七頁以下、佐伯千仭―刑法総論初版三一四頁以下、団藤重光―刑法綱要二七八頁以下三三四頁ないし三三五頁及び刑法各論九頁十頁、田村豊―刑法雑誌四巻一号「集団犯罪について」、植松正―刑法総論二六五頁等参照)。他方、わが実定法について観ると、かかる集団犯的事象を律するにあたり、刑法第七十七条の内乱罪或は同法第百六条の騒擾罪に関する各規定又は公職選挙法第二百三十条の選挙妨害罪に関する規定等におけるが如く、一般参加者をもいわゆる附和随行者として最も軽い刑で処罰する方法をとつているものもあれば、さらに一歩を進め、国公法第百十条第十七号地公法第六十一条第四号等の如く、かかる一般参加者は処罰の対象から外ずして行政的処分に任せ、たゞその中で重要な役割を演じた「共謀」者或は不当、不公正なやり方で実行面を指導した「そそのかし、若しくはあおり」行為者のみを処罰する方法をとつているものもある。恐らく、その何れたるを問わず、かかる集団犯的事象においては、全体の中における各人の役割如何によつて責任の軽重が定められるべきであり、而も、右責任の軽重は必ずしも各人の行為の表見的な害悪性の度合等と一致することを要しない、との見解に立脚するものと考えられる。そして、右見解は、理論的にも、集団現象に関する各方面からの考察に基き把握されたその特質に鑑み、学者達によつて容認されつつあるところである。当裁判所も亦、諸学者と共に右各立法の合理性を是認するものである。

弁護人の所論は、かかる集団現象の特質及びこれに着目した近時の刑法理論には一言も触れないで、ただ、幹部が争議行為の遂行を企画、提案、指導することも一般組合員が実行を分担することも、斉しく争議参加の態様に過ぎず、その間に何ら法的価値の差異は存しないというような、組合幹部のリーダーシツプ等に関する実状を疎んじた立論を前提とし、或は専ら個人的行為を念頭において組み立てられた旧来の共犯理論を演繹して、前記地公法の規定を論難しているに過ぎないのであつて、右集団犯的事象に関する近時の刑法理論に対する効果的な批判を伴つた上でなければ、たやすく受け容れることができない。

なお、弁護人の所論は、争議行為の実行が本来的に不可罰であり、刑事法上違法とされ得ないものであることをも、その論拠の一つとしているが、この点については次の(三)の中でも主張されているので、そこで判断を示すことにしたい。

(三) 本規定は憲法全体の精神及び憲法的秩序と適合しない旨の主張について

旧労働組合法並びに旧労働関係調整法及び同法解釈例規第一号の内容が何れも弁護人所論の通りであり、殊に「学校講習所その他の教育養成施設」の業務に従事する者が、右労働関係調整法第三十八条の適用を受けず、従つて争議行為をなすことができるものとされ、又同条に違反して争議行為がなされた場合労働者の団体等に対し一万円以下の罰金を科することができるようになつていたことは、何れも明らかなところである。

しかし、曽つてそうであつたからといつて、必ずしもこれをわが憲法第二十八条を解釈する絶対的な基準とすることは妥当でなく、寧ろ憲法第二十八条の基礎の上に、右のような旧諸法が成立することもできれば、又現行の労働諸法が成立することもできると解するのが、正当な考え方であろう。

而して、憲法第二十八条で保障される労働三権も、同法第十三条により公共の福祉のために制限をうけることを免れないことは、既に前記一の(四)で縷述した通りである。そして、かかる公共の福祉のため公務員の争議行為を禁止するについても、前掲旧労働関係調整法及び同法解釈例規第一号のように比較的控え目なやり方や、昭和二十三年政令第二百一号の如く争議行為の実行者をも直接処罰する強硬なやり方や、或は現行の国公法第百十条第十七号、地公法第六十一条第四号の如く、実行者自体を処罰することを避け、ただ争議行為の遂行に関し重要な役割を演じた「共謀」者及び不公正な方法で実行を指導する「そそのかし、若しくはあおり」行為者のみを処罰する中間的なやり方等色々段階的な差異があり、且つそのいずれもが、その時その時の客観情勢に適合するものである限り、憲法第二十八条の下に合憲性を主張しうるものと解するのが相当である。即ち、公務員(例えば教育公務員)の争議行為を全くの放任行為として法的規制の埓外におくか、それとも全面的な刑罰をもつて臨むか、或は全面的に行政処分に委ねるか、或はまた一般的には行政処分の対象とするとともに、部分的に特定の役割をした者に対し刑罰をもつて臨むかは、当該の国又は地方公共団体のその時々における基盤的な諸事情及び各職種の内容等を検討して決せらるべきものであり、現行の国公法或は地公法が、その対象とされている公務員につき、争議行為に参加すること自体を処罰していない一事をもつて、それがわが憲法下本来的に不可罰であるとなす見解にはたやすく賛し難く、また曽つて教育公務員が争議行為を承認されていた時代があるからといつて、特に教育公務員の争議行為に限り本来的に不可罰なものと考えることもできない。

次に、公共企業体等労働関係法第十七条、第十八条及び地方公営企業労働関係法第十一条、第十二条が公務員の争議行為を禁止しながら違反者に対しては解雇権を留保するに止め、これを処罰の対象としていないこと、並びに旧治安警察法第十七条所定の刑が一月以上六月以下の重禁錮及び三円以上三十円以下の罰金に止まつていたこと等は、弁護人所論の通りであるが、他方例えば、自衛隊法第百十九条(第一項第三号第二項)はかかる争議行為につき、その実行行為者を含め三年以下の懲役又は禁こ(なお命令反抗をともなう時は第百二十条により五年以下の懲役または禁こ)という体刑のみを規定しているのであつて、広く警察職員及び消防職員までもその対象としている地公法第六十一条第四号所定の三年以下の懲役又は十万円以下の罰金という刑が、果して他の争議禁止諸法規との関係で均衡を失し、或は苛酷にすぎるものであるかについては、色々意見が岐れ得るところであり、右地公法の規定をもつて明らかに苛酷にすぎ、延いて合理性を欠くものとは必ずしも断定し難い。

弁護人引用の故H・J・ラスキ著「近代国家における自由」中の論述部分は、公務員の争議行為を如何に律するかに関し、フランスにおける例外的事態の存在に言及することにより、寧ろ国情により相違があり得ることを暗に認めているものと解され、又同著書中右引用部分の前後にわたる論述と照らし合せても、政府といえども最小限度の経費で最大限の奉仕を得ようとする経済面では、私的な雇用主と何ら変るところがないので、公益の理由により公務員の争議行為を禁止する範囲をできるだけ狭くすべきことを唱導しているものであつて、必ずしも政府と公務員との関係が、すべての面において民間の労使関係と同一であることまでをも論証しようとしているものではなく、右論述に聴いても、未だ当裁判所の前記見解を変更し、右地公法の規定が憲法全体の精神及び憲法的秩序に適合しないものとする弁護人の所論に左袒するわけにはいかない。

以上のような次第であるから、地公法第六十一条第四号が憲法第三十一条に違反する旨主張する弁護人の所論も、亦採用することができない。

かくして、地公法第三十七条第一項前段第六十一条第四号は、憲法第二十八条、第十八条、第二十一条、第三十一条或は第九十八条のいずれの条項との関係においても、その合憲性を肯認され得ることを判定したわけであるが、判文の随所から窺われるとおり、その趣旨は、必ずしも右規定を含む現行の公務員労働関係に関する諸法規が、今後の整備改善を不要とするほど十全なものであることまでをも容認するものではないことを、一言附記して、弁護人の違憲論に対する判断を終ることにする。

第二、本件一斉休暇は地公法第三十七条第一項前段にいわゆる「同盟罷業」に該当しない旨の主張について

被告人並びに弁護人等は、被告人等があおつたとされる本件一斉休暇は、労働基準法(以下単に労基法ともいう)第三十九条の規定による有給休暇請求権の行使として行われたものであり、これによつて業務の正常な運営が阻害されたとしても、それは有給休暇を適法に取得したことの当然の結果であつて、地公法第三十七条第一項前段にいわゆる「同盟罷業」に該当せず従つて被告人等の本件行為は同法第六十一条第四号にいわゆる「あおり」にあたらない旨主張するので、この点について判断する。

地方公務員である教職員が、地公法第五十八条第二項、労基法第三十九条により、年次有給休暇請求権を認められ、これに対し使用者が、事業の正常な運営を妨げられない限り、労働者の請求する時季に右休暇を与えねばならぬものとされていることは、所論の通りである。而して、地公法第二十四条第六項に基き制定された「福岡県職員の勤務時間等に関する条例」(昭和二十六年十二月二十四日同県条例第七十四号)第五条は「休暇については国家公務員の例による」と規定し、国家公務員については「人事院規則」一五―六、4において「休暇はあらかじめ機関の承認を経なければ与えられない」と定められている(なお同規則1、2及び人事院細則一五―六―一、並びに国公法第一次改正附則第三条参照)。また、再び福岡県職員の場合に立ち戻ると、「職員の休暇の取扱について」と題する昭和三十二年十二月二十七日付福岡県総務部長通知は、その別紙第一通則の第四項において、「休暇は、文書によりあらかじめ所属長に承認を求め、その承認を経なければ与えられない」と規定している。そして、「福岡県市町村立学校職員の勤務時間等に関する条例」(昭和三十一年九月二十九日同県条例第四十三号)によれば、同県における市町村立学校の県費負担教職員についても、勤務時間その他の勤務条件に関しては上来掲記のような「県立学校職員の例による」ことになつており、なお判示関係市町村教育委員会制定の各「学校管理規則」によれば、右職員の休暇に対する承認は校長がすることとなつている(記録五〇冊中一七四九七丁、一七四六三丁裏、一七四七七丁裏各参照、なお嘉穂郡、飯塚市、山田市、田川市等を除くその他の市町村においても同冊及び五一冊に編綴の各管理規則に明らかなとおり概ね同様の建前になつている)。

ところで、右有給休暇請求権の法的性質をめぐつて請求権説と形成権説とが対立しているが、当裁判所は、これを特殊の請求権と解するのが、相当と考える。蓋し、使用者は、労基法第三十九条第三項により、同項但し書の場合を除いて、請求された時季に有給休暇を与えるべきことを覊束されている点において、普通の請求権の場合と異るものがあるが、他方同条第一項乃至三項がいずれも休暇を「与えなければならない」とか「与えることを要しない」という表現を用いていることに鑑みると、法は使用者側における休暇を与える行為即ちその承認と相俟つて有給休暇権が発効すると為す立場をとつているものと解され、又同法第百十九条第一号掲記の同法第三十九条違反の罪も、形成権説をとると、同条第三項に関しては殆んど成立する余地が無くなつて、わずかに同条第四項に関してのみしか成立しないこととなり、請求権説に従い、使用者が同条第一項第二項の請求に対し不当に同条第三項による有給休暇の承認を与えなかつた場合にも成立すると解する方が、少くとも現行同法の精神に忠実なものと考えられるので、右有給休暇請求権は、労働者の請求により直ちに形成的効果を生ずるものではなく、やはり一種の請求権に属するものと解するのが、より適切であるというべきである。そして、かく解することは、後述使用者側における有給休暇中の賃金支払義務との関係においても寧ろ調和を保つ所以であり、なお、実際面において特段の不都合を生ずるものとも考えられない。さらに、いずれにせよ、労基法第三十九条第三項但し書により、使用者は、右請求された時季に休暇を与えることが事業の正常な運営を妨げる場合において、他の時季にこれを与えることができる、と為す点では、両説ともに異るところがないことも、留意さるべきであろう。

かくして、有給休暇の請求がなされた場合においても、右のような承認ないし時季変更(仮りに形成権説に従えば後者のみ)というかたちで、使用者側の労働力に対する管理支配が明確に留保されているのであつて、それは、使用者側が有給休暇に対し文字通り給料或は賃金を支払う義務を負担させられていることと対応するものと、考えられる。いわゆる有給休暇はこのような基盤の上に成立しているものである。

しかるに、本件一斉休暇は、証拠上明らかなとおり、措置要求集会を理由とする有給休暇請求の手続を践んだ上で行われたとはいえ、判示認定のとおり、前掲諸法規に根拠を有する校長の承認ないし業務命令の有無に拘らず、一斉に授業を放棄することになつていたのであつて、畢竟するところ、被告人等を含む各組合員は、本件一斉有給休暇請求に対し使用者側たる校長が承認を与えず且つ業務命令(仮りに形成権説に従えば時季変更行為の一部を構成するものということになろう)を出すべきことを、十分に予見しながら、右の場合使用者側に留保されている労働力管理権をも排除することを、当初から意図していたものと認めるのが、事案の真相に添うものと言わねばならない。そして、公立小、中学校における初等中等教育は、未成熟の発育期にある児童や生徒や心身の条件、その他の諸事情を勘案して樹立された授業計画通りに行われるのが正常な状態と目せられるのに、右のような全一日にわたる一斉休暇を行うことは、その事業の性質、対象及び事業休止の規模程度等に鑑み、まさしく事業の正常な運営を阻害するものというべく、このことは、後日何らかの工夫により補充ないし回復をなすことが可能であると否とに拘りないのであつて、寧ろ弁護人等が縷々論述する如く、その補充ないし回復を問題とせねばならぬこと自体が、右補充ないし回復の容易でないことを物語るものというべきである。従つて、各校長が一斉に出された本件有給休暇請求に対し休暇を与えることを承認せず且つ業務命令を出すことは、固より正当な措置であり、これをもつて校長が法律上の覊束に反し、不当に休暇を与えない場合に該当するものと目することもできない(因みに、弁護人等は、労基法第三十九条第三項但し書が「時季」という文言を用いていることを根拠として、事業の正常な運営を阻害するかどうかも四半期を超える時間的拡がりにおいて把えられるべきものである旨の見解を述べているが、右但し書のみならず、その本文も「時季」という文言を用いているところ、それは、有給休暇が二十日以内の継続した或は分割した日数に及び、従つて、時として二つ以上の季節に跨り得ることなどを考慮し、場合により労働者の休暇請求もこれに対する使用者の承認ないし時季変更も夏季とか盆正月というような季節を単位として為し得ることをも許容する趣旨で、「時季」という幅のある表現をとつたまでのことであつて、必ずしもすべてが季節を単位にして行われるべきことまでをも要求している律意ではないと解するのが相当であり、従つて、事業の正常な運営を阻害するかどうかも、必ずしも所論の如く四半期を超える時間的拡がりにおいて判断すべきものと限定的には考えられず、現に休暇が行われるべき具体的な時間的拡がりを基準として判断すべきものと解されるので、右見解にはたやすく賛し難い)。

以上明らかにしたように、有給休暇請求権の拠つて立つ基盤関係から全く離脱し、使用者側に留保されている労働力管理権をも排除して一斉に休むという本件一斉休暇は、もはやその実体において労基法第三十九条に規定する有給休暇の範疇に属しないものというべく、その際すでに校長の承認がなくても、授業を放棄することを意図しておりながら、ことさらに為された前記有給休暇請求手続の如きは、空しい紛飾的行為に過ぎなかつたものと目する外はないであろう。かくして、本件「あおり」行為の対象とされた一斉休暇は、右のような実体に従い、労基法第三十九条による合法性の衣を脱がれ、裸の事実行為として、他の面からの法的評価にさらされねばならぬわけである。

而して、本件一斉休暇が、勤評阻止という組合主張の要求を貫徹することを目的とした組織的、集団的授業放棄であつたことは、判示認定のとおりであり、且つそれが業務の正常な運営を阻害することも、前々段において事業の正常な運営の阻害という問題に関し説示したところと同様の理及びそれが前記の如く使用者側たる校長の業務命令にも服しないものであつたことに徴し、これ亦明らかなところであるから、結局右一斉休暇は地公法第三十七条第一項前段にいわゆる「同盟罷業」に該当し、従つて、被告人等の判示所為は、同法第六十一条第四号に規定する、これらの行為をあおつたものに該当するものと、いわねばならない。

以上のような次第であるから、本件一斉休暇は有給休暇請求権行使等の故に、地公法第三十七条第一項前段の「同盟罷業」に該当せず、従つて被告人等の本件所為は同法第六十一条第四号の「あおり」にあたらない旨の、弁護人等の右所論も、亦採用することができない。

第三、本件一斉休暇は超法規的違法性阻却事由に該当する刑法上正当な行為である旨の主張について

被告人並びに弁護人らは、要するに本件一斉休暇は、一、当時の自民党政府及びそれを代表する文部省並びに福岡県教育委員会が、反動政策の一環として違法不当な勤務評定を実施することによつて、教師の教育的諸権利や教師集団の諸権利(団結権、交渉権等)を侵害し、憲法の理想を実現する民主教育を破壊しようとしたのに対し、それらの憲法を頂点とする諸権利を守ろうとした点で正当であり、二、そのための手段方法においても、内外の慎重な実施要望や反対要求にもかかわらず、県教委がこれらの要望、要求をすべて拒否して規則制定を強引に行なおうとしたぎりぎりの日に実施した点で必要性、緊急性が充され、児童の学習に混乱のないよう事前に周到な配慮をなす等その方法それ自体においても相当であり、三、その行為により守ろうとした法益(憲法上の諸権利)はその行為によつて侵されたとする法益と比較してはるかにこれを超えるものであつたから、結局超法規的違法性阻却事由に該当する旨主張する。

そこで、先ず右一の目的の正当性の点について判断するのに、国家公務員或は地方公務員に対する勤務評定が当該官職の職務遂行の基準に照らして行われるべきこと並びに職階制の実施により右職務遂行の基準を完全に明確ならしめることが、勤評実施の前提条件として望ましいことは、弁護人所論の通りと考えるが、右職階制が実施される以前においても、既存の法令慣行等により職務遂行の基準がある程度明確であれば、それに応じた勤評を行うこともできるわけであつて、この理は、国公法第六十三条第二項或は地公法第二十五条第三項ないし第五項により法律上職階制と連結すべきものと定められている給与準則或は給料表すら職階制の確立を待たないで現に実施されつつある事実に徴しても、首肯できるところである。福岡県における勤評が職階制の実施を待たないで行われようとしたことは証拠上明らかであるが、必ずしもその一事により右勤評が違法不当なものと目することはできない。

而して、既に丙第二の一でも述べた通り、凡そ、集団的、組織的な社会において、情実、因縁を排し、合理的な適材適所の人事行政を行うためには、勤務の成績を公正に評定することが前提的な条件とされるのであつて、ひとり教職員に関する人事行政の分野のみが、その例外となり得ないものであることは、改めて贅言を要しないところであろう。ただ、その職種、職域等により勤務成績の公正な評定について難易の差があることはいうまでもなく、また、その方法如何により、却つて弊害を生ずる場合があることも否定できないであろうが、これによつて直ちに勤務評定の必要性を否定するわけにはいかない。判示甲の第一の事実の認定に供した各証拠によれば、福岡県教委が本件当時勤評規則の制定に次いで実施しようと準備していた勤評実施要領の評定基準の中には、事実上正確な評定に相当困難を伴う項目などがあつたほか、右勤評制度は単独者による評定の建前をとり且ついわゆる異議申立権も認めていなかつたので、色々な短所欠点を包蔵していたことを指摘できるであろうが、他面、少くとも右の制度による勤評書は従来作成されていた身上調書等に対比し、より詳細且つ具体的な合理的、科学的内容を有するものと認められ、教職員の人事管理にプラスする点があつたことも、決して否定できない、問題は、右勤評制度のもつ利点とその弊害と、その何れの方が大であるかに帰着するが、前記丁の第一の一の(五)第三段に説示の通り、既に勤評の計画及び実施が法律上の義務とされている以上、要は、できる限りその短所ないし矛盾を除去してより利点の多い勤評制度を確立することこそ、各関係者が為し得る、そして寧ろ為さねばならぬ当面の課題であつたというべく、又斯くすることによつて弁護人らの憂慮する弊害もこれを阻止し或は最小限度に喰い止めることができたであろう。判示甲の第一の事実の認定に供した各証拠によれば、当時右県教委が勤評規則を制定しようとした意図は、上述のような意味でまさしく人事行政の適正化を計るにあつたものと認められ、又予想された前記指摘のような欠陥も、話し合いその他の合法的手段を尽すことにより是正の可能性も存したと認められるのであつて、必ずしも弁護人等主張の如く右県教委の意図が福教組の集団的諸権利ないし教師の教育的諸権利を侵害し、民主教育を破壊することにあつたものと断ずることはできない。

尤も、証人内藤誉三郎、同井上武夫の各供述記載等により認められるように、愛媛県で実施された勤評制度及びこれに伴う同県文教当局等の組合対策に一部行き過ぎがあつたことに鑑み、福教組が福岡県での勤評実施の意図に対し不信の念を懐いたことも一部無理からぬ点がないわけではないけれども、当裁判所の証人辻田寿子に対する尋問調書(記録四一冊編綴)の記載によれば、愛媛県教職員組合の青年部副部長である同証人は、勤評実施前においては同県教職員の人事権は同組合にあつた旨供述するところであり、又当裁判所の証人大西忠に対する尋問調書(同冊編綴)中にも右供述を裏書するような供述記載が存するのであつて、愛媛県における前記のような状況は、このような組合による人事管理的なことが行われていた過去の極端な事態に対する反動としての、そしてこれ亦極端に走つた過渡的な現象と目することができ、同県における勤評が全国都府県における勤評の先駆をなしたとはいえ、当裁判所の証人内藤誉三郎、同宮之原貞光に対する各尋問調書(記録三六、三八冊編綴)中の各供述記載から窺われる通り、他の都府県における勤評実施が必ずしも愛媛県におけると同様な状態を惹起していないと認められることに徴しても、他の都府県特に福岡県の勤評が教師及びその組合の諸権利を侵害する等の意図に出でたものとは認め難い。

また、全国的に眺めると、国民の一部特に政党人の間には勤評を教職員組合攪乱の手段として利用すべく、これを側面から推進しようとする意図を有する者があつたかも知れないことは、右宮之原貞光の証言、押収した長崎自民党連合会の手紙及び同封筒写(証第一六〇四、一六〇五号)等からも窺知できるところであるが、本件の全証拠に照らしても、福岡県における勤評規則の基礎となつたいわゆる全国試案の作成に当つた全国都道府県教育長協議会或はその第三部会又はこれを援助した文部省当局において、左様な組合攪乱の意図を有していたと認めるには不十分であり、況んや福岡県教委当局がそうであつたとは認め難い。

さらに、勤評が各教師の民主的活動を圧迫し、その生活権その他の諸権利を蹂躙するかどうかも、結局勤評の具体的方法及び内容の如何に懸るところ、福教組は、各幹部の内心的意図は如何様にもあれ、組合として勤評絶対反対を呼号し、県教委の勤評規則制定の延引のみを策し、勤評の具体的内容に立ち入つて、その欠点を除去するための建設的な話合をすることを回避していたことが判示甲の第一の事実の認定に供した各証拠に徴して認められるので、畢竟、それは反対のための反対の態度に終始したというも過言でなく、現に本件当時福岡県においては勤評規則の具体的内容をなす勤評実施要領も未確定の状態にあつた(右実施要領は本件一斉休暇の後二ヶ月余を経た同年七月二十一日に公布)のであるから、本件一斉休暇の目的が教師の諸権利を擁護するための正当なものであつたと為すには未だその前提条件を欠くものというべく、到底これを肯認することができない。

なお、福岡県における勤評が文部省及び自民党政府に連なる反動文教政策の一環として実施されようとしていたと認めることも、本件証拠上困難であるのみならず、何が反動的であるかは、例えば平和或は愛国心等の問題とひとしく、各人の主観により色々意見の岐れるところであり、福岡県における勤評を目して何人の眼にもその反動性が客観的に明白なものであるとは為し難いので、これを阻止することが超法規的違法性阻害事由における正当目的に該当するものということもできない。

次に、前記二の手段方法の相当性の問題につき考えてみるのに、なるほど、福教組では一斉休暇のため児童、生徒の学習に混乱が生じないように予め自習計画書を配布するなど、できるだけの配慮をしていたことは、判示甲の第一の事実の認定に供した証拠に徴して認められるところ、前説示の如く本件一斉休暇の目的が正当と認められない以上、もはや超法規的違法性阻却事由が存するものと認める余地はないわけであるが、仮りに右目的が若干の正当性を包含していたとしても、これを達成するための手段方法として右一斉休暇が相当なものであつたと認めることもできない。即ち、福岡県教委の意図した勤評制度が色々具体的な欠陥を包蔵し、延いて弁護人等指摘のような弊害を生ずることが予測されたとしても、これらを是正するためには話し合い協議(地公法第五十五条にいわゆる交渉)、措置要求(昭和三十七年十一月十四日浦和地裁第一民事部判決参照但し必ずしも休暇を要しない)、訴訟提起等の合法的なすべての手段が先ず尽されねばならないのであつて、証拠上明らかな如く、このような面において何ら視るべき具体的努力を払うことなく、既に民主々義のルールにより法律で定められた勤評そのものを否認し、右勤評制度の実施につき何の咎もない児童、生徒を捲き込み、これを犠牲に供することを早くからプログラムの中に織り込んで進められた本件一斉休暇闘争が、相当な手段であつたと目することは到底できない。

仮りに百歩を譲り、勤評阻止のため勤務時間に若干喰い込んで措置要求集会を行う必要があつたとしても、証人原田律(第三三回公判)、同広瀬春男(第五六回公判)、同小川彰(第三二回公判)、同内野秀一(同上)、同野本晃雄(同上)、同波呂新五郎(第三四回公判)、同板垣政喜(第五八回公判)の各供述記載等に徴すれば、本件措置要求集会は各地とも概ね午前中に終つているのに、集合等のため多少の時間を要するとはいえ、判示認定のとおり、右所要時間を遥かに超え全一日の授業放棄を企てるに至つては、この点からのみ観ても、その手段としての相当性を弁護する余地は無くなるであろう。

以上のように、本件一斉休暇が超法規的違法性阻却事由に該当する旨の弁護人等の所論は、既に右一、目的の正当性及び二、手段の相当性の二点において是認できないから、弁護人等の縷述する前記三の目的と手段との法益権衡論について判断を示すまでもなく、その理由がないことが明らかであり、従つてこれも亦採用することができない。

戊、本件公訴事実中、無罪の事実並びにその理由等

第一、罪とならない事実(省略)

第二、犯罪の証明がない事実(省略)

第三、右第一及び第二に関する無罪判定の理由

右第一及び第二の各訴因摘記にかかる被告人らの慫慂行為の目的である教職員の一斉就業放棄が計画実行されたことは、判示甲の第一の二の(二)において認定した通りであり、右一斉就業放棄が地公法第三十七条第一項前段にいう同盟罷業に該当するものであることは、前示丁の第二において説示した通りであるから、進んで右被告人らの訴因摘記にかかる慫慂行為の存否とこれが同法第六十一条第四号にいう「あおり」行為に該当するか否か、について考察する。

そこで、便宜上先ず、地公法第六十一条第四号にいう「あおり」の概念を明らかにするのに、右の「あおり」とは、同法第三十七条第一項前段の争議行為を実行させる目的で、文書若しくは図画又は言動により、他人に対しその既に生じている実行の決意を助長させるような勢のある刺戟を与えることをいうものと解すべきことは、既に前示丁の第一の四の(一)第三段において説示した通りである。即ち、「あおり」行為とは、文書や言動などをもつて、相手方に勢のある刺戟――相手方の感情に訴えて、その興奮、高揚を惹起させる刺戟――を与えることを意味すると共に、右「あおり」罪が成立するためには、行為者において相手方をして争議行為を実行させる目的で相手方に勢のある刺戟を与え、右刺戟によつて相手方がその既に生じている実行の決意を助長する危険性を認めることができることを必要とする。そして、どのような表現活動が右「あおり」罪に該当するかは、各具体的事案について右表現活動の内容、形態及びそれが為されたときの諸々の状況を社会経験則に照らして判断するの外はない。例えばそもそも行為者が如何なる目的でその場に行つたものであるかにより、その行為の意味内容も自ら異なることもあろうし、或は右行為の形態について見ても、それが文書であるか言動であるかによつて、相手方に与える刺戟の程度は必らずしも同一とはいえまいし、なお、全く同一内容の事柄を訴える言動であつても、それが如何なる経過の中で行われ、如何なる態度、語調で発言されたかにより、その刺戟の程度に自ら異なるものがあるであろうし、また、ひとしく文書であつても、印刷文書もあれば、肉筆文書や血書等もあつて、やはり同様のことがいえるばかりでなく、他方、当時における相手方の心情、性格、経歴、その他社会的経験の程度など色々な客観的諸事情によつても、その刺戟の程度が異なり得るわけであるから、これら諸般の事情をも勘案して慎重に検討すべきであろう。そこで、右に説明した「あおり」の概念に照らして、本件各訴因につき順次検討する。

一、前記第一の一及び二の「指令」の通達行為を内容とする各訴因について

先ず、右訴因摘記の中央闘争委員長小野明名義にかかる指令第一号が福教組々合員らに通達されたことは判示甲の第一の二の(二)において認定したところであり、右指令第一号(証第四八号)の記載内容は次の通りである。

指令第一号 統一行動に関する件

われわれは三月十日の団交に於て「抜打四月実施はしない、今後とも話し合いを続ける」との覚書交換により、現在まで小康を保つたかの如くであつた、四月四日の事務局交渉によつて明らかにされた如く、既に実施案、実施規則案等は準備完了をしていると見られる。

このことは四月二十五日勤評実施強行を企図して行われた文部省よりの要請にもとづく本省木田地方課長を交えた九州教育長会議の内容追及を行つた二十六日の教育長交渉に於ても確認された。

即ち「準備は完了している。二十八日の委員会で実施日程の打合を行う様になるだろう」とのことであつたし、「二十九日からでも話し合いを進め、五月の連休をも返上して話し合いを進めよう」との申出がなされ、更に県教委は二十六日十九市教育長会を招集し、勤評実施協力の要請を行つている。尚、九州教育長会議では「五月上中旬実施」の申合せがなされていると言うことが確認され、二十八日の動員二名を含む団交に於ては、話し合いの時期について論議が集中し、結論としては六日の教育委員会より話し合いを行うことを確認した。

然しながら交渉の論議の中から、既に「規則案・実施案」は教育委員に配布され、研究されていることが明らかにされたし、実質的な結論は出されているものと見られ、更に一方的な話合い打切りが行なわれることを交渉団として確認した。

この様な情勢から、規則制定の最大の時期は七日であると判断される。我々はこの時機に最大の戦術行使を全組合員の意志を結集して敢然と行なわなければならない。

日教組指令に基き左記の通り指令する。

一、各地闘は五月七日地闘単位の休暇請求による勤評阻止のための措置要求大会を実施せよ。

1、大会に於て組合員個人の措置要求書を集約し、中闘に八日持参せよ。

2、大会に於て勤評阻止の抗議打電を県教委に集中せよ。

3、具体的な細部は別紙によるものとする。

二、地闘は地区労合同戦術会議を中心に他労組との積極的共闘と父母大衆に対する宣伝を併せ強化する。

右指令の記載内容は、いわゆる別紙と共に、主として、前記福教組第十一回定期大会で決議された一斉休暇闘争を具体的に実施するための事務的連絡事項及び右一斉休暇の時期を七日に繰り上げるに至つた事情を事務的叙途をもつて説明したに過ぎないものであることは、その記載自体によつて明らかである。ただ、右記載中「我々はこの時機に最大の戦術行使を全組合員の意志を結集して敢然と行なわなければならない。……左記の通り指令する。」との部分があり、第三者から見ると教職員の団体における言葉としては異様な感を与えるものがあり、或は多少刺戟的要素を含む語句がないわけではないが、当時における福教組全般の活動情勢及び組合員の職業柄や組合意識の程度等諸般の事情に鑑みるときは、その相手方である教職員が右程度の書面を閲読するだけでは、未だ、その感情に訴え既に生じている実行の決意を助長する危険性があつたものとは認め難い。さすれば、訴因摘記のとおり右指令を相手方に通達し、或はその趣旨を布衍したとしても、これが地公法第六十一条第四号にいう「あおり」行為に該当するものとはいえないから、その余の判断をまたず、結局右指令の通達を内容とした各訴因は、すべて罪とならないものといわねばならない。

二、前記第一の三の「集会通知書」の配布行為を内容とする各訴因について

右訴因摘記の中央闘争委員長小野明名義にかかる「勤務評定阻止措置要求集会通知」が福教組々合員らに通達されたことも亦、判示甲の第一の二の(二)において認定したところであり、右集会通知(証第七六号)の記載内容は次の通りである。

“勤務評定阻止措置要求集会通知

新緑の候、組合員各位には益々御健勝にて職務勉励の事と思います。さて、昨年度以来民主教育を守ることを念願し、勤務評定を実施しないよう県教育委員会と話し合いをかさねてまいりましたが、今まさに一方的実施がなされようとしています。私どもは県人事委員会に対し、勤務条件の措置を全員要求するための日教組委員長から左記の期日に集会するよう指令がありましたので通知致します。(集合日時、集合場所)”

右集会通知書の記載内容によれば、それは単なる集会の案内状に過ぎず、その相手方に対し、実行の決意を助長させるような勢のある刺戟を与える文言は存しないものと認められるから、その余の判断をまたず、結局右集会通知書の配布行為を内容とする各訴因も亦、すべて罪とならないものである。

三、前記第二の一の被告人花田久男に対する訴因について

第四五回及び第五四回各公判調書中証人山内弥寿隆の供述記載(記録一四、一六冊編綴)、同人の検察官に対する供述調書(記録四五冊、一五五五九丁以下編綴)、第八六回公判調書中証人平山昌蔵の供述記載(記録三二冊編綴)、当公廷(第一〇五回公判)における被告人花田久男の供述(記録四六冊編綴)を綜合すると、被告人花田久男は右訴因摘記の日時、場所で開催されていた福教組筑紫支部評議員、分闘長合同会議に偶々出席し、その席上で右評議員及び分闘長等二、三十名から質問を受けたのに対し左記の如き趣旨の応答をしたことが認められる。即ち、「四月二十八日の団交で県教委が五月六日団交をもつといつたが、六日の団交も妥結は望めない。決裂すれば直に規則を制定するに違いないから、七日に一斉休暇を実施することは規則制定を阻止するために絶対必要だ。」「県教委の態度が強硬で順法闘争の如きなまぬるい方法では効果がないことが明らかになつた。」「弁護団の解釈は福教組の解釈どおり一斉休暇は合法だというのである。」「一斉休暇闘争の効果に対する見通しについては、完全に阻止できないとしても、実施期日を遅らせることは出来るから、やつて甲斐はあると思う。」「一斉休暇を請求し、措置要求大会に参加することは合法である。即ち、各人に小野明から措置要求大会の案内状が来たから、個人の立場で休暇をとつて大会に出るに過ぎないからである。一斉に教員が休むと全校授業が出来なくなるが、自習計画を立てて自習をさせておけば良いし、一日ぐらいの授業の停止は一年間で取り戻す方法があるから、正常な業務の支障にはならない。」などと述べたものであるが、右応答の経過内容を仔細に検討するときは、概ね理性的な自己個人又は福教組、日教組その他関係弁護団等の見解を、その出所等も明らかにしながら説明したに過ぎないものと認められ、たとえ、右見解において法律解釈上或はその他の情勢判断等に正鵠を得ないものがあつたとしても、右程度の表現は言論その他一切の表現の自由に属するものと認めるのが相当であるから、これをもつて「あおり」行為に当るとするのは相当でない。この点において、前記有罪認定にかかる「勤評を許すと戦前の逆コース時代に戻る」とか、「組織を割らないで皆と足並を揃えてくれ」(即ち他所もやるからやつてくれという意味)とか「一切の責任は中闘が負うから心配要らぬ」とか「腰が弱くては勤評を阻止できない」とか、その他事の理非曲直よりも主として感情面に訴える各発言とは、聊か趣を異にするものがある。のみならず、前掲各証拠によれば、被告人花田が右会議に出席した経緯は、偶々日教組事務職員部長宮沢明夫の来訪を受け、同人から福教組下部組織の実情を知りたいとの希望を出されたのに応じ、その案内役として同人と共に右会議に出席するに至つたという偶然の事情によるものであり、その席上同被告人の側から進んで積極的に発言をする立場でもなかつたことが認められるし、また当時、右筑紫支部は勤評闘争に消極的な態度を持していた訳でもなかつたから、強いて右闘争にかりたてねばならないような客観情勢も存しなかつたことが窺えるばかりでなく、各証拠に照らしても同被告人が右応答に当り、相手方の感情を特に刺戟するような過激な態度語調を示した事実のあつたことを疑わせる如き資料とてなく、却つて同被告人の当公廷における平素の態度などに鑑みても、右疑念を懐かせるものはないから、これら諸般の事情に照らすときは、結局右応答は、同被告人なりにその理性に立脚して、冷静に意見を述べ、説明をしたものと認めるのが相当であり、従つて前記「あおり」の概念に照らして、右応答は未だ相手方に対しその感情に訴えて実行の決意を助長させるような勢のある刺戟を与えるものではなかつたと認めるのが相当である。畢竟、同被告人が右席上で「あおり」行為をしたことを認むべき証拠は他に存しないから、右訴因はその余の判断をまたず、犯罪の証明がないことになる。

四、前記第二の二の被告人中村邦臣に対する訴因について

第五一回及び第五四回各公判調書中証人塩田良男の供述記載(記録一五、一六冊編綴)、同人の検察官に対する供述調書(記録四五冊、一五六五二丁以下編綴)、押収した闘争スケジユールと題する書面一通(証第二〇七号)、当公廷(第一〇四回公判)における被告人中村邦臣の右訴因に関する供述(記録四六冊編綴)を綜合すれば、被告人中村邦臣が右訴因摘記の分闘長らに対し同摘記のような発言をしたことが認められる。しかし、右発言の内容は単に、勤評阻止のためには、一斉休暇で対抗する外に方法がないから是非突入して貰いたい、というに止まるものであるから、その内容自体は未だ理性的な説得の域を出ないもので、ことさら感情を刺戟するものの存在を認めることはできない。尤も、内田英昭の検察官に対する供述調書(記録四五冊、一五五七二丁以下編綴)によれば、被告人中村はその際「こんどの一斉休暇闘争は福教組はじまつて以来の大闘争であり、勤評を阻止するためには是非ともやらねばならない。皆さんの分会でも脱落せぬよう残らず参加されるよう結集して下さい。年次休暇を請求することは労働基準法できめられた権利であり、勤務条件等について要求することも、地公法で認められておるのだから、勤評反対の要求をするため休暇をとつて参加することは、権利の行使としてどの点からみても違法ではないのだ。」と説明した旨記載されており、その中には傍点を附した部分の如くやや相手方の感情を刺戟するものがないわけではないけれども、右は客観的事実に添うものでもあるのみならず、その相手方の感情を刺戟する程度たるや、極めて軽微であつて、社会通念に照らしこれを取り上げるに値しないものというべく、さらに前記各証拠、第三六回及び第四一回各公判調書中証人太田徳実の供述記載(記録一一、一三冊編綴)、同人の検察官に対する供述調書(記録四五冊、一五五五四丁以下編綴)に徴して認められる右発言の動機、態度、その場の状況等各般の事情を勘案しても、これらの発言によつては未だ相手方に対しその感情に訴えて実行の決意を助長させる勢のある刺戟を与えたものとは目し難いので、右訴因は結局その余の点の判断をまたず、犯罪の証明がないものである。

五、前記第二の三の被告人島田二男に対する訴因について

第四五回及び第五二回各公判調書中証人大熊勝宣の供述記載(記録一四、一五冊編綴)、同人の検察官に対する供述調書(記録四五冊、一五五九〇丁以下編綴)、当公廷(第一〇五回公判)における被告人島田二男の供述(記録四六冊編綴)を綜合すれば、被告人島田二男が右訴因摘記の教職員らに対し、質疑に答えて「ここで一斉休暇もやらなきや他に術はない。」と発言したほか、山ノ口小学校分会の分闘長大熊勝宣より闘争すれば犠牲者も出るでしようし、子供達の先生に対する感じも変つて来るでしようという意見が述べられたのに答えて、「子供も先生達が戦つてくれた事を将来感じてくれる時があるでしよう。」というような発言をしたことが認められるところ、右発言内容にはやや相手方の感情を刺戟するような要素がないではないが、その程度たるや前記中村被告人の場合と同様極めて軽微であつて、社会通念上取り上げるに足りないものというべく、また右発言は比較的低調な質疑応答の過程で述べられたものであり、特に勢のある態度をもつて発言したことを認むべき十分の証拠もないので、結局島田被告人の右発言は未だ相手方に対しその感情に訴えて実行の決意を生ぜしめ、若しくは助長させる危険を惹起させるような勢のある刺戟を有するものとは認め難いので、右訴因についても、その余の判断をまたず、犯罪の証明がないものという外はない。

六、前記第二の四の被告人岩田泰治に対する訴因について

第三二回及び第三七回各公判調書中証人野本晃雄の供述記載(記録一〇、一二冊編綴)、第四七回及び第五二回各公判調書中証人有吉義彦の供述記載(記録一四、一五冊編綴)、右両名の検察官に対する各供述調書(記録四五冊、一五四四一丁以下、一五六二〇丁以下編綴)、当公廷(第一〇五回公判)における被告人岩田泰治の供述(記録四六冊編綴)を綜合すれば、被告人岩田泰治が右訴因摘記の分闘長会に出席したことは容易に認められるけれども、同被告人がその席上でどのような発言をしたかについては明確ではない。即ち、野本晃雄の検察官に対する供述調書によれば、「田中勝美が五月二日の分闘長会議で、ここは大分足並が揃わない様子だから、帰つたら皆の人に良く話をして、一斉休暇に突入出来る様な態勢をととのえて貰いたいと強く要望し、被告人岩田泰治も五月六日の分闘長会議で同様のことを強調した」旨の記載があるに過ぎず、岩田被告人が為した具体的発言の内容については直接記載されていない。そして、右田中勝美の発言内容も、分会員達とよく話して態勢を整えることを要望したに止まり、右会議に出席していた各分闘長本人に対して一斉突入方を要望した趣旨には解し難く、仮りにこれと同趣旨のことを岩田被告人が強調して発言したとしても、訴因摘記の如くこれを聞いた分闘長らにおいてその旨分会員らに伝達したことを認むべき証拠はない。のみならず、本件犯罪の成否上最も重要な関係をもつ発言内容については、その一言一句を厳密に吟味すべきことが当然要請されるところ、右調書の記載では被告人岩田の発言内容につき具体性を欠き不明確のそしりを免れず、これをもつて十分の心証を得る資料とするに足りないものである。次いで、第三二回公判調書中証人野本晃雄の供述記載によれば、被告人岩田が「妥結するにせよ、実力行使突入にせよ、足並だけは一応揃えておつたほうがいいのじやないか、というようなことをいつた」旨の記載があるが、右発言内容自体では、未だ「あおり」行為に当るものとするに足らないことは、前記「あおり」の概念に照らし明らかである。また、有吉義彦の検察官に対する供述調書によれば「今回の統一行動は勤評阻止に与えられた最後の手段であり、最後まで組織が団結してやらねばならない。一斉休暇闘争は年次有給休暇を利用してやるのであり、違法ではないのである。責任は組合がもつ。」旨発言した趣旨の記載があるが、第四七回及び第五二回各公判調書中証人有吉義彦の供述記載に徴すれば、右発言内容は明確な記憶に基くものとは認め難く、このことは前記野本晃雄の各供述記載と対比しても裏付けされるところである。以上、説述した如く結局これらのいずれの証拠に徴しても、その発言の内容自体、未だ「あおり」に当らないと解せられ、或はその発言の内容が真実どのようなものであつたかについて、十分の心証を持ち得ないものがあり、他にこれを補う証拠もないので、右訴因はその余の判断をまたず、犯罪の証明がないものである。

七、前記第二の五の被告人大神一彦に対する訴因について(略)

一二、前記第二の一〇の(一)及び(二)の被告人前田秀隆に対する各訴因について(略)

一三、前記第二の一一の被告人村上昭人に対する訴因について(略)

一四、前記第二の一二の被告人野村大四郎に対する訴因について(略)

第四、右無罪部分の要約(略)

(裁判官 吉田信孝 小川宣夫 鐘尾彦文)

(別紙 訴訟費用負担の裁判略)

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